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Windows Live® の検索結果 パリの西南約20kmに位置する宮殿。1682年から1789年10月までフランス王国の宮廷がおかれた。宮殿建築と内部の装飾、家具調度品、造園など、全体が17世紀後半から18世紀におよぶ芸術作品として最高水準の作品であり、ウィーンのシェーンブルン宮殿、日本の赤坂離宮など、各国の宮殿建築の手本とされた。広大な庭園と、中にあるグラン・トリアノンおよびプチ・トリアノンの2つの離宮をふくめて、現在は国立博物館になっており、フランス最大の観光スポットのひとつである。 17世紀の半ば、パリの町は雑然として不衛生であり、国王ルイ14世にとっては幼少のころのフロンドの乱(1648~53)を思いださせる町でもあった。このため、パリ郊外に居住地をもとめてベルサイユ宮殿の建築を開始させた。ベルサイユには父のルイ13世が、1620年代に狩猟のための離宮をもうけていたので、これを拡大することになり、建築家のル・ボーと画家のル・ブランが宮殿部分の、また造園師のル・ノートルが庭園の設計をゆだねられた。ル・ボーはまもなく死去し、アルドゥアン・マンサールがその後任となった。 宮殿の整備にともなって、1660年代後半にはベルサイユは離宮として利用されるようになったが、70年代になると王は永住をのぞみ、宮廷全体が移転することになった。計画は巨大になり、またベルサイユの小村落も王国行政の中枢として都市化された。宮殿の本館の両翼は400mをこえる規模をもち、庭園の中心となる「運河」と通称される池の長さは1600m、その先にある「王の星」の広場と宮殿の距離は3kmにもおよび、工事の最盛期には3万人の職人と6000頭の馬が使用された。 礼拝堂(1710年完成)、オペラ劇場(1770年)などの完成はルイ14世の晩年、もしくは死後にもちこされたが、1682年に宮廷は正式にベルサイユに移転した。宮殿の中で生活した者は王族をはじめとして5000人にのぼったという。ベルサイユの町の人口はルイ14世の晩年に2万5000人、フランス革命直前には7万人であった。宮殿はヨーロッパ大陸最強の国家の行政や絢爛(けんらん)豪華な祝宴など、フランス絶対王政の一部始終を目撃することになる。 ベルサイユ宮殿は1789年5月の全国三部会の舞台となり、これがフランス革命のきっかけとなった。この年の10月5日、食糧の不足に憤慨したパリの民衆は王宮におしかけて宮廷のパリ帰還を要求、王の一家は翌日、ルーブル宮殿につれもどされた。フランス革命後、ベルサイユは王宮となることはなく、1837年に国王ルイ・フィリップの命により、国立博物館になった。1871年にはプロイセン・フランス戦争に勝利したプロイセン国王ウィルヘルムは宮殿内の「鏡の間」でドイツ皇帝ウィルヘルム1世としての即位式を挙行し、1919年6月には第1次世界大戦に敗北したドイツを相手とする和平条約が同じ「鏡の間」で調印された。なお、ベルサイユ宮殿は53年まで、フランス共和国大統領を選出するための両院議員総会の場所として利用された。
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