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イラン南西部のフージスターン平野にある古代遺跡。ペルシャ湾から北へ約240km、ザグロス山脈の西側に位置する。スーサには先史時代からイスラム時代までの遺跡がふくまれているが、ペルシャ帝国アケメネス朝の都のあった場所としてもっともよく知られている。このときの都はダレイオス1世(在位、前522~前486)によって建設された。
今日でも巨大な都市遺跡がのこっており、遺跡の大きさは、南北約1400m、東西約800m。北に「アパダーナ」とよばれる謁見(えっけん)の間や宮殿、西のアクロポリスには城砦(じょうさい)がきずかれ、さらに東と南の、「王の都市」「天守閣」と便宜的に名づけられた4つの地区からなっている。 スーサの発掘は19世紀中ごろにはじまり、旧約聖書の「ダニエル書」などにある「シューシャン」と比定された。19世紀後半からはフランスの考古学調査隊による発掘がつづけられ、ハンムラピ法典碑、ナラムシンの戦勝記念碑など貴重な遺物が発見されている。
スーサは先史時代から中東地域とイラン高原をむすぶ交易の要所として重要な役割をはたしてきた。当時の交易品は主としてイラン高原南部で採取、加工されたラピスラズリや紅玉髄(カーネリアン:→ 玉髄)などの貴石で、エジプトやメソポタミアで珍重された。 都市としての始まりは、前4000年ごろに宗教センターとして創設されたとみられ、この時期の彩文土器が発見されている。ついで、メソポタミアのウルク期(前5千年紀後半~前3500頃)に並行する時代になると、円筒印章や彫像がみつかっている。さらに次の原エラム期は、メソポタミアではジャムダッド・ナスル期(前3500頃~前2900頃)にあたり、未解読の原エラム文字を記した粘土板(→ 粘土板文書)が出土している。
前2500年ごろ以降のスーサは、フージスターン平野を中心にさかえたエラムの王国の都となり、その後しばしばメソポタミアの勢力と攻防をくりかえした。メソポタミアのアッカド王朝期(前2335頃~前2150頃)、ウル第3王朝期(前2113頃~前2004頃)には、メソポタミアの勢力に征服された。遺物としてのこっている前述のナラムシンの戦勝記念碑は、アッカド王国の第4代の王ナラムシンがエラムを征服したときのものである。 しかし、前2千年紀後半、とりわけ前1330年ごろ~前1110年ごろにエラムの王国は最盛期をむかえ、ナラムシンの戦勝記念碑やハンムラピ法典碑が、メソポタミアのバビロニアから戦利品としてスーサにもちかえられたのもこのころである。
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