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1305~58 室町幕府初代将軍。在職1338~58年。初名は高氏。貞氏の子で、母は上杉清子。妻の赤橋登子は北条氏の有力一族である鎌倉幕府執権、赤橋守時の妹。足利氏は清和源氏の名門で、幕府ではもっとも有力な御家人だったが、長い間、北条氏の下にあまんじていた。そのため、尊氏ははやくから源氏再興の志をいだいていたという。
元弘の乱(1331)では、2度も幕府軍の大将のひとりとして上洛したが、2度目の上洛の際、篠村八幡宮(京都府亀岡市)で鎌倉幕府に反旗をひるがえし、討幕軍の主力となって六波羅探題をほろぼした。 後醍醐天皇の建武の新政がはじまると、第一の功臣として参議・武蔵守となるなど、高位高官につき、天皇の名の尊治から1字をもらって尊氏と改名したが、建武政権の中枢からは一歩身をひき、武家政権再興の姿勢をしめした。
1335年(建武2)には中先代の乱を鎮圧するために鎌倉へむかい、乱を平定したのちも後醍醐天皇の帰京命令を無視して鎌倉にとどまった。そのため新田義貞が尊氏追討軍をひきいて鎌倉へむかうと、これをやぶって公然と建武政権に反逆、翌年には義貞軍をおって入京したが、間もなく北畠顕家らにやぶれて九州にのがれた。 しかし、九州でふたたび挙兵し、湊川(みなとがわ)で楠木正成らをやぶって(湊川の戦)入京。光明天皇を擁立して建武式目を発表し、幕府の開設を宣言した。この年末、後醍醐天皇は吉野(奈良県)にのがれ、以後、南北朝の動乱となる。
1338年(延元3・暦応元)には征夷大将軍に任じられて、名実ともに室町幕府が成立。その直前には、南朝方の北畠顕家と新田義貞があいついで戦死しており、翌年には後醍醐天皇も没したため、幕府政治は順調に進展するかにみえた。しかし、執事の高師直と弟直義の対立から、50年(正平5・観応元)観応の擾乱が勃発した。 この内部抗争は、1352年(正平7・文和元)直義を殺しておさまったが、その後も直義の養子の直冬(実父は尊氏)や南朝方とむすんだ旧直義派武将の反抗がつづき、その鎮圧にあたる中で病死した。法号は等持院仁山妙義、鎌倉では長寿寺殿という。禅僧の夢窓疎石に帰依(きえ)し、後醍醐天皇の菩提をとむらうため京都に天龍寺をたてたり、直義とともに戦没者の慰霊のため全国に安国寺・利生(りしょう)塔をたてたりした。
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