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ところで、水田は、その状態や機能によって、次のように分類される。必要に応じてじゅうぶんに排水できる水田は乾田であり、これに対して、排水困難で常時水をたたえた湛水(たんすい)の状態にある水田を湿田という。さらに、河川、池沼や地下水などを水源として、灌漑施設によって灌水される水田を灌水田という。また、灌水施設を欠き、もっぱら天水をあつめて水稲栽培に利用する水田を天水田という。
イネ(水稲)は、湛水条件で栽培される唯一の穀物で、生産力が高く、しかも安定している。これはイネそのものの優秀性のほかに、水田土壌が肥沃(ひよく)であることに由来する。アジア稲作地帯の人口密度の高さは、イネの高い生産性と安定性にささえられて生じたものである。 水田は、土壌有機物が分解されにくい、土壌の酸化還元電位(pH)が中性近くにたもたれる、土壌中のリン酸がイネに利用されやすい形態となる、イネが吸収するかなりの量の無機養分が灌漑水から供給される、雑草の発生が抑制される、などの特徴をもつ。これらは、いずれも水田が水を湛(たた)えることからくる特性である。 さらに、湛水下では有害な微生物センチュウが死滅し、有害物質もあらいながしてくれる。そのため、イネは同一の場所で何年もつくりつづけること(連作)ができる。同じイネでも、陸稲を同じ畑で2~3年もつくりつづけると、連作障害をおこし、収量はいちじるしく減少してくる。 一般に植物は、湛水条件では根が酸素不足となり生育できないが、水生植物であるイネは、酸素を地上部から根へ供給することのできる通気組織をもっているため、湛水条件でも生育が可能なのである。
日本の水田においては、昭和40年代ごろまでは、夏季に水稲をつくった後、冬季には可能なかぎりムギ、ナタネ、野菜、牧草などが栽培されてきた。これらの水田の冬作物を裏作といい、夏作のイネは表作とよばれる。また、表作の水稲作の後につづいて裏作がつくられる水田は二毛作田であり、表作だけしか作付けされないものは一毛作田とよばれる。
弥生土器(やよいどき:→ 土器)の中には表面に稲作農耕を裏づけるイネの籾痕のあるものがあり、研究者の多くは、かなり以前に日本での弥生時代(→ 弥生文化)からの稲作文化の存在を予想していた。その後、各地で炭化米も発見され、低湿地などでみつかった農耕用木製品などとあわせて、戦前にはすでに日本での初期水田稲作農耕の規模や内容まで議論がすすんでいた。 近年は、縄文時代(→ 縄文文化)の遺跡や土器からイネの痕跡をしめす炭化米やプラントオパール(植物ケイ酸体)が発見されており、陸稲などイネ科植物の渡来の時期は縄文後期とする説が出され、それよりはやかった可能性までも指摘されるようになっている。しかし、九州地方を中心に日本列島で水田による稲作が本格化したのは縄文晩期から弥生初期のことであった。 九州地方には水稲の栽培種が中国、長江下流域の江南地方(福建、広東、湖南)からつたわったことがわかっているが、そのルートについては4つの説がある。 第1は、陸路で朝鮮半島に入り、玄界灘をわたって北九州へ、第2は、陸路で山東半島から東シナ海をわたって朝鮮半島に入り玄界灘をわたって北九州へ、第3は、江南から南シナ海をわたり朝鮮半島へ入り、さらに玄界灘をわたって北九州へ、第4は、江南から島伝いに沖縄・奄美諸島をへて九州へという説である。 このとき日本に入ったのはジャポニカ種だが、今後、朝鮮半島の考古学調査などで同種のイネが発見されればルート問題は解決されるだろう。
縄文晩期から弥生初期に九州地方につたわった水稲は、当然、稲作耕作者かその技術を知る人をともなったはずで、当時の大陸や半島の最新レベルにあわせて稲作の耕作地がきめられたようである。これまでみつかった初期水田耕作跡の立地は、谷奥地や後背湿地、氾濫原などさまざまである。弥生時代の水田は、はやい段階から畦畔(けいはん)により区画され、福岡市の板付遺跡では幅約80~100cm、高さ30cmの畦(あぜ)でかこまれ、群馬県高崎市の日高遺跡では丸太や小枝をくんで芯(しん)にした畦がつくられていた。 当時の水稲耕作の収量レベルは、出土例は少ないが、弥生前期から中期を中心とする福岡県小郡市の横隈鍋倉遺跡(よこくまなべくらいせき)や、奈良県田原本町の多遺跡(おおいせき)や唐古・鍵遺跡などでみつかった稲穂から、1反(たん:→ 尺貫法)当たり約60kg以下という見解も出ており、これは今日の平均である1反当たり約500kgの8分の1以下で、生産性はかなり低かった可能性がある。くわえて気候や病虫害などのマイナス要素があり、実際の収量はさらに低かったかもしれない。
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