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日本の米の総生産量は、奈良時代が約100万t、江戸時代が約200万~300万t、明治時代が約600万~700万t、そして昭和20年代になると1000万tをこえるまでになった。これは、新田開発と土地改良、栽培技術の向上、そして品種改良によるものである。
日本で新田開発が盛んにおこなわれたのは、条里制施行時代、戦国期から近世初頭、明治30年代の3つの時期である。 水田は谷間の沢田や山の棚田からはじまり、4~5世紀に古代国家が形成されるころは、盆地や沖積平野の周辺部に進出してくるようになって、奈良時代の水田面積はおよそ100万haに達していた。 しかし、その後は大河川の制御が困難だったため水田面積の拡大は停滞する。
これをうちやぶったのが戦国大名たちである。彼らは築城や鉱山採掘技術を用水土木工事へ応用したのである。武田信玄は信玄堤(しんげんづつみ:→ 堤防)を、加藤清正は乗り越え堤をきずいて治水をおこなった。 徳川幕府も利根川の付け替え工事をおこなった。利根川はかつて現在の江戸川、中川筋をながれて江戸湾(→ 東京湾)にそそいでおり、関東平野は荒川、利根川、渡良瀬川がながれる不毛の低湿地であった。これを銚子方面に東進させ、荒川を西によせ、江戸川を開削することによって治水をおこない、新田が開発された。 また、関西では大和川の付け替え工事がおこなわれた。大阪平野は北東からの淀川と南からの大和川の合流する湿地帯であった。1700年代初頭には、河内平野を北上していた大和川を、現在のように堺のほうへ西進させる工事がおこなわれ、大和川跡に多くの新田が開発された。 こうして、1000年以上手つかずでのこされてきた大河川沿岸の沖積平野が、一挙に水田として活用されるようになった。 さらに、児島湾などのような浅瀬の海や印旛沼などの湖沼を干拓した新田開発もおこなわれた(→ 印旛沼干拓)。 その結果、江戸初期に120万haにすぎなかった水田面積が、江戸中期には160万ha、明治初期には250万haと大幅に拡大した。このような新田開発が可能になったのは、土木工事技術の飛躍的な進歩による。
幕府の解体にあたっては、明治政府が士族授産のため大規模な開墾を実施した。また、第1次および第2次世界大戦前後も食料の確保あるいは失業人口の吸収などのため、政府によって大規模な開拓がはかられた。
日本で組織的なイネの育種がはじまったのは、1893年(明治26年)に国立農事試験場が設立されてからである。それまでの品種改良の主体は、もっぱらイネを栽培する農民自身で、お伊勢参り(→ 伊勢信仰)や善光寺参りを利用して種子の交換をしたり、在来品種の中で自然に生起した変異体(→ 変異)の中から、優良個体をみつけて選抜する分離育種法がおこなわれていた。かつて、日本三大品種といわれた神力(しんりき)、愛国、亀の尾は分離育種法による民間育成品種である。 しかし、分離育種法では、ある程度選抜をつづけると、それ以上は改良の効果が期待できなくなる。そこで、1904年ころからは人工交配によって新品種をつくりだす交雑育種法が開始され、育種の効果が一段と高められた。その結果、水稲の単位面積当たりの収量(単収)は1ha当たり江戸時代に1~2tであったのが、1930年代では3t、さらに80年代になると5tに達するようになった。
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