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  • 院政 - Wikipedia

    院政 (いんせい)とは、在位する 天皇 の直系尊属である 太上天皇 (上皇)が、天皇に代わって政務を直接行う形態の政治である。上皇は「 院 」と呼ばれたので、院政という(「院政」という言葉自体は、江戸時代に 頼山陽 が『 日本外史 』の中でこうした ...

  • 院政

    天皇 (てんのう ) が 位 (くらい ) をゆずって 上皇 (じょうこう ) や 法皇 (ほうおう ) になってからも 政治 (せいじ ) の 実権 (じっけん ) をにぎり, 院庁 (いんのちょう ) で行った 政治 (せいじ ) 。 1086年, 白河上皇 (しらかわじょうこう ) が行った ...

  • 院政開始の背景

    院政開始の背景 メールでの質問への応答です(2000.7.5 & 2001.03.11)。

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院政

院政 いんせい
百科事典項目

上皇・法皇(院)が国政の実権をにぎって天皇のかわりに院庁で政務をとる政治の形態。平安後期の白河上皇以降に一般化し、形式上は江戸末期までつづいたが、厳密な意味で院政時代とよばれる時期は、平安後~鎌倉前期の約140年弱である。このうち白河・鳥羽両院政期を前期(1086~1156)、後白河後鳥羽の時期を後期(1158~1221)とする考え方が有力だが、鎌倉幕府成立(1192)以前の後白河時代までを、院の専制的な面を重視して院政時代とする考え方もある。

上皇の国政への関与は、古くは持統上皇(697~702)からみられるが、「天皇は東宮(皇太子)のごとし」といわれる状況は平安後期以降のことである。摂関政治が天皇の母方という外戚関係を基本としたのに対し、院政は天皇の父が皇位経験者としての資格から政治をおこなった。

院政のきっかけについては、鎌倉前期の慈円が「愚管抄」にしるしている。後三条天皇は摂関家への対抗上、子の白河天皇に譲位(1072)したあとも後見として政務をとる意志があった。しかし、まもなく病没したため、上皇となった白河が父の考え方をうけつぎ院政をはじめた。これは一般にもうけいれられているが、近年の研究では、白河天皇ははじめから政務をとるつもりで譲位したわけではなく、皇統を皇子の善仁(堀河天皇)に確実につたえるための方策だったといわれる。

院政をささえた政治基盤は院近臣(いんのきんしん)とよばれる中・下流の貴族たちで、彼らは摂関家に対抗するかたちで受領層に支持され、院宣(院近臣が命令を奉じてだす文書)を通じて国政に関与した。制度や慣習にしたがって政務をおこなう摂政関白や天皇とちがい、院は私的で形式にとらわれない院宣によって専制的に裁断をくだすことができたのである。

さらにその経済基盤となったのは、院分国をふくめた受領と摂関家をしのぐ院領荘園で、院は荘園領主としても強大な力をもった。また武力的基盤となったのが、北面の武士西面の武士だった。前者は白河上皇の時代にもうけられ、僧兵の強訴のときなどに活躍、後者は後鳥羽上皇が新たにつくった院固有の武力で、承久の乱(1221)では討幕側の主要な軍事力となった。

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