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江戸

江戸 えど
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

東京の前身の地名で、近世における政治の中心地。江戸に幕府がおかれた1603年(慶長8)から1867年(慶応3)までを、一般に江戸時代と称する。なお、秩父氏の一族が江戸に進出し、地名をとって江戸氏と名のったのが12世紀の初めといわれ、「吾妻鏡」の1180年(治承4)8月26日条にみえる江戸太郎重長が文献上における「江戸」の初出である。

II

城下町江戸の成立

扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の執事であった太田道灌の手により、桜田郷の台地上に江戸城が完成したのが1457年(長禄元)で、江戸城東側の平川(ひらかわ)の河口に集落もつくられ、もたつようになった。しかし、このころはまだ民家100軒ほどの規模だったと考えられる。戦国期には、後北条氏の勢力下に入り、城代として遠山氏が江戸城をまもった。

1590年(天正18)小田原攻めにより後北条氏が豊臣秀吉にほろぼされると、関東8カ国は徳川家康にあたえられ、江戸城を本拠地とすることになる。家康は、のち山の手とよばれるようになる麹町、神田台周辺に家臣の屋敷地をもうける一方、江戸城東南部の海岸や低湿地の宅地化をすすめ、町人町をつくった。とくに江戸城まで道三堀(どうさんぼり)を開削し、物資の輸送路を確保するとともに、堀にそって最初の町人町である船町、四日市町、材木町、柳町を開いた。さらに江戸城の西の丸築造にともない、92年(文禄元)から日比谷入り江の埋め立てを開始し、城下を拡大した。

関ヶ原の戦(1600)後、江戸に屋敷をもうける大名もふえるが、1603年に将軍に就任した家康は、全国の主要な大名に「天下普請(てんかぶしん)」を命じ、神田山の台地を切りくずし、豊島(としま)の洲崎(すざき)をうめたてさせ、日本橋以南に広大な町人町を造成した。町人町は整然とした碁盤の目状に区画され、縦横に掘割がのびて水上交通による物資輸送が容易になり、荷揚げ場の河岸(かし)が各所につくられた。日本橋周辺が商業地として都市的発展をとげ、東海道をはじめ主要街道の起点になった。寛永年間(1624~44)には、こうした市街地に約300の町が成立したが、これらはのちの町割(まちわり)で新たに成立する町と区別して古町(こちょう)とよばれた。

III

江戸の発展

江戸の町の発展には、「天下普請」のほかにもいくつかの契機があった。そのひとつが治水の問題である。1616年(元和2)に開削がはじまった神田川によって日本橋付近は洪水の被害から解放されたし、神田上水や玉川上水が完成したことにより、江戸の飲み水だけでなく、武蔵野台地の新田開発も可能になった。こうして江戸近郊の農業生産力が向上し、栽培された蔬菜(そさい)類が巨大消費地江戸へ売りに出されるようになる。

市街地整備のうえでは、大規模な火災が転機となった。なかでも、1657年(明暦3)1月の明暦の大火では江戸市中の約6割が焼失したため、江戸城周辺に集中していた大名屋敷の分散や寺社の郊外移転がすすめられたほか、一部の町屋は強制的に移転させられ、広小路や火除地(ひよけち)が造成された。都市改造に影響しただけでなく、この大火後、日傭頭(ひようがしら)であった河村瑞賢が木曽の山林を買い占め、建築ブームで巨富をえて材木商としてのしあがっていく。のち、元禄年間(1688~1704)に上野寛永寺の造営事業をうけおい、豪商として台頭する紀伊国屋文左衛門も同様で、材木商から御用商人として成功するケースはこの時期の江戸豪商に特徴的である。そして、「火事とケンカは江戸の華」といわれた火災に対しては、1720年(享保5)に町奉行大岡忠相の手により、「いろは四十七組」の町火消が編成された。

1662年(寛文2)に上野、下谷、芝方面の街道筋と寺社門前300余町が江戸町奉行支配下にくわえられ、1713年(正徳3)には市街地周辺が町並地とされ、町数は933町にふえた。さらに19年(享保4)にも本所、深川が編入され、45~46年(延享2~3)には寺社門前地が寺社奉行から町奉行の管轄下にうつされ、92年(寛政4)江戸の町数は1668町に達した。1818年(文政元)には朱引(しゅびき)がおこなわれ、江戸府内の範囲が厳密に規定された。

江戸の範囲が広がるにつれて、1693年(元禄6)に35万人余だった町人人口も、享保年間(1716~36)には50万人をこえた。武家人口も、旗本御家人の家族や奉公人をはじめ、各大名屋敷内に居住する諸藩の人口をくわえると50万人近くになり、寺社人口もふくめると、江戸中期に江戸の総人口は軽く100万人をこえていた。江戸はすでに世界一の大都市であった。また、江戸ではゴミ船による塵芥(じんかい)収集が早くからおこなわれており、永代島(えいたいじま)を皮切りに埋立地の造成に一役買ったほか、都市からでる屎尿(しにょう)も近郊農村の肥料として役だっていた。

IV

「江戸らしさ」の形成

江戸の特色をあげる場合、まず武家人口の多さでは群をぬいていた。また、足軽中間など、武家の陪臣(ばいしん)としてかかえられる武家奉公人や、都市建設の労働力となった日雇い労働者も多かったことから、女性より男性人口の比率が高かったのも特徴である。すでに17世紀中ごろには、江戸の旗本奴(やっこ)、町奴を中心に、かぶき者とよばれる反体制的存在があらわれ、若者たちの間でかぶき者のような男伊達(おとこだて)をきそう風潮が流行している。同様に、吉原などの遊里も繁栄し、遊郭や岡場所が女性のファッションや都市文化の発信源となっていった。

しかし、経済的には「天下の台所」である大坂が江戸をしのいでおり、金融や商人資本も江戸中期までは、依然上方のほうが日本の中心であった。酒や醤油などの生活用品も、上等品は菱垣廻船樽廻船で上方からはこばれる「下り物」にかなわず、関東の品物は品質のおちる「下らない物」と認識されていた。古着でさえ「下り物」のほうが上等品としてあつかわれたほどである。このため、1694年(元禄7)上方商品の荷請問屋組合として結成された十組問屋(とくみどいや:問屋)は、この時代の江戸の経済界で中心的な役割をになうことになった。

桐生の織物や銚子の醸造など、ようやく江戸周辺で産出される商品が「下り物」に対抗できるようになるのは18世紀以降である。練馬のダイコン、浅草の海苔、行徳の塩、深大寺のソバ、八幡(やはた)の甘藷(かんしょ:サツマイモ)などの特産品も生まれてきた。いわゆる江戸地廻り経済圏の成立である。1841年(天保12)天保の改革の一環として株仲間の解散が命じられたが、商人の自由競争を保証したのも、こうした流れにそう政策であった。しかしそうした発展は、一大消費地の江戸に独特の文化を生みだすとともに、深刻な都市問題も生むことになった。いき(粋)をもとめる意識や、歌舞伎浮世絵滑稽本川柳狂歌の流行は化政文化の特徴であり、それらは江戸の町人が担い手となって高められたものである。「江戸っ子」意識が芽生えるのもこのころである。

他方、天明の飢饉後、北関東の農村荒廃がすすむと、村をはなれて江戸に流入し、そのまま滞留する都市下層民が増加した。無宿の横行とともに、こうした下層民の存在は、江戸をはじめ関東一帯の治安問題にも関係し、大きな社会問題となった。彼らの参加によってひとたび打ちこわしなどがおきれば、騒動は連鎖的に拡大することになるため、寛政の改革および天保の改革では、都市流入民問題に対して旧里帰農令や人返しの法などが出されたが、効果はさほどあがらなかった。

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