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1603年(慶長8)、征夷大将軍となった徳川家康が江戸にひらいてから、1867年(慶応3)の大政奉還まで15代265年間つづいた武家政権。徳川幕府ともいい、その支配のあり方は幕藩体制とよばれる。 徳川氏は強大な経済力と軍事力で他の大名に優越したが、封建領主という面では彼らと同じ立場にあり、支配の正統性を保証する伝統的権威をもとめた。それが鎌倉幕府・室町幕府という武家政権からひきついだ、他者への軍事的指揮権をもつ征夷大将軍職である。しかし、征夷大将軍は天皇から任命されるものだったため、天皇の権威をいかに処理するかが課題ともなった。 徳川氏は武家への官位叙任権をにぎり、朝廷・公家(くげ)に禁中並公家諸法度をだし、2代将軍徳川秀忠の娘の和子(まさこ)を後水尾天皇の中宮にし、紫衣事件(1627)後に和子の子の明正天皇を即位させることで、将軍職にもとづく全国統治に公的権威づけをした。以降、将軍は国家の公権力である公儀(こうぎ)として君臨し、幕府は対外的には日本を代表する政府として機能した。幕末期になって、開国前後の動静は幕府の対外的な地位をうしなわせ、尊王攘夷運動など対抗勢力による天皇権威の利用で公儀の地位もゆらぐこととなり、大政奉還で実質的に崩壊する。
江戸幕府の機構は、基本的には徳川氏が一大名時代に採用していた簡素な奉行制にもとづくものである。しかし、役職についた個人の勝手な活動が制限され、17世紀半ばから役方とよばれた行政職と戦陣での軍事権限にもとづく番方が分離されていくと、それぞれの職務と権限がさだめられ、上級職・下級職の支配系統ができあがり、数多くの職を生みだした。 このうち臨時職である大老、常置の老中に若年寄・寺社奉行・町奉行・勘定奉行らが政権の中枢をなして全国的な政策にたずさわった。畿内を管轄する京都所司代は将軍に直属したが、そのほかの遠国奉行や各郡代・代官は老中・勘定奉行のもとにおかれ、幕府直轄都市や直轄領(幕府領)の支配にあたった。これらの役職は大名の頂点としての将軍をささえ、これにより全国統治がはかられた。時代の変化に適応するため、足高の制(1723)などをとおして人材の登用を保障する措置がとられたが、江戸時代を通じてみれば、譜代大名・旗本・御家人が就任できる役職は固定していた。
幕府の財政は基本的に、三都(江戸・大坂・京都)のほか重要な商工業地・貿易地・流通拠点をふくむ直轄領からの年貢収入でまかなわれた。これら直轄領の石高(こくだか)は、譜代大名領・旗本領にあてがわれたものもあって正確にはわからないが、江戸中期以降は400万石をこえたという。江戸前期の年貢収入は順調で、金山・銀山からの豊富な産出、鎖国体制と糸割符制度による交易収入が財政をうるおした。 しかし、災害復旧費や大名・旗本らへの下賜金のほか恒常的な支出の増大は財政を圧迫しはじめ、鉱山産出量の減少と交易の衰退がこれに追い打ちをかけた。年貢徴収率もさがってきたため、17世紀後半以降は独占していた貨幣鋳造権を利用して貨幣を改鋳し、財政悪化に対処した。貨幣の改鋳は、時代により諸物価を安定させる経済政策の意味ももったが、多くは貨幣の金銀の含有比率をさげ、差益である出目(でめ)を生みだすのが目的だった。 幕府財政の窮乏は商品経済の発展に遠因があったが、享保・寛政・天保の改革でも回復させることはできなかった。18世紀後半以降は百姓一揆や打ちこわしも頻発するようになる。幕末期の政情はさらに多額の出費をまねき、最終的には約600万ドルにのぼる外債をのこして江戸幕府は解体した。
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