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Windows Live® の検索結果 滋賀県大津市坂本本町にある天台宗の総本山。山号は比叡山。山門ともよばれる。最澄が創建し、平安時代以来、人々のあつい信仰をあつめた大寺院。平安京の東北に位置し鬼門にあたることから、王城をまもる寺とされ、南都とよばれた興福寺に対して北嶺(ほくれい)といわれた。 寺の起源は、788年(延暦7)最澄が創建した比叡山寺にある。最澄は804年に中国の唐へ留学、天台山にまなび、翌年帰国してこの地に天台宗をひらき、大乗戒壇の建立を申請した。しかし南都の旧宗勢力の反対にあい、天皇のゆるしをえて教団の独立が実現したのは、没後の822年(弘仁13)だった。翌年、延暦寺と命名された。 初代の天台座主(ざす)に義真が任命され、その後、最澄の弟子円仁や円珍が唐から密教をつたえて寺運は隆盛にむかった。しかし9世紀半ばに円珍が別院として園城寺を再興して寺門派を形成、延暦寺は山門派とよばれ、両者の対立がはげしくなる中でそれぞれが勢力をきそった。10世紀の第18代座主の良源の時代には、寺院の規模もととのい、わが国最大の宗教権門としてさかえた。皇室や摂関家の信仰もあつく、延暦寺には多くの荘園が寄進され経済的基盤が増大した。 11世紀末からの院政期には多くの僧兵をやしなって、園城寺のほかに京都や奈良の諸寺社とも紛争をくりかえし、座主の任命や寺領問題では、朝廷に強訴をおこなった。「平家物語」や「源平盛衰記」にかたられているように、白河上皇でさえ意のままにならない山法師とは、この延暦寺の僧兵のことで、山門勢力の強大さに由来している。宗教権門として頂点にたつ延暦寺は、皇室や摂関家との関係も強め、とくに尋禅(じんぜん)が第20代の座主に就任して以降、皇族、貴族の子弟の入寺がつづき、門跡(もんぜき)が成立した。梶井門跡、青蓮(しょうれん)院門跡はその代表的な例である。 鎌倉~室町時代の武家勢力の台頭期にも、膨大な寺領荘園を保持する経済力にくわえて僧兵という武力組織もかかえ、中世社会に独自の権力基盤をもった。また宗教界に新風をふきこんだ法然・親鸞・日蓮・道元・栄西・一遍ら鎌倉新仏教の開祖たちは、いずれも延暦寺でまなんでいる。しかし、室町後期以後は荘園の衰退もてつだって寺運はしだいにおとろえ、1571年(元亀2)の織田信長の延暦寺焼き打ちで堂塔はことごとく焼かれ、数千人が殺された。これで中世的権門としての勢いは決定的に低下したが、豊臣秀吉と徳川家康により寺領をあたえられて復興。江戸時代には堂塔の再建がすすんだ。 広大な寺域は、東塔・西塔・横川(よかわ)の3塔と16谷にわかれ、本堂の根本中堂(国宝)や釈迦堂・戒壇院、信長の焼き打ちをまぬがれた唯一の建物である瑠璃(るり)堂など多くの堂塔がたつ。絵画や彫刻、書跡など仏教美術の宝物も多くのこっている。
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