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Windows Live® の検索結果 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)3~6月、南西諸島、沖縄島および周辺の島々でおこなわれた日米最後の決戦。小笠原諸島の硫黄島を確保したアメリカ軍は、アイスバーグ(氷山)作戦とよばれる沖縄攻略作戦を開始した。約1500隻の艦艇と後方支援もあわせてのべ約55万人の兵力で、同年3月26日、慶良間列島の座間味島、渡嘉敷島、慶留間(げるま)島などを次々に攻略。4月1日には沖縄島中部の嘉手納(かでな)、北谷(ちゃたん)海岸に上陸し、その日のうちに嘉手納の中飛行場と読谷の北飛行場を占領した。 これに対する沖縄守備隊は、陸海軍約10万人、現地徴集の防衛隊員、学徒隊員約2万人で構成されていた。守備隊は本土決戦までの時間かせぎをするため、中南部に陣地をきずいてアメリカ軍の兵力を消耗させる持久戦を展開した。無血上陸をはたしたアメリカ軍主力部隊は、1945年4月7日ごろから日本軍主力部隊への攻撃を開始し、那覇市東部の首里北部の嘉数(かかず)高地、浦添高地では約40日にわたる一進一退の攻防戦を展開して大きな被害をだした。この戦いで日本軍は主力部隊をうしない、南部の摩文仁(まぶに)村に撤退。同年6月23日に牛島軍司令官が摩文仁洞窟で自決し、組織的戦闘はおわった。 沖縄戦の特徴は、本土決戦か徹底抗戦かで陸軍と海軍の意見がくいちがったこと、国体護持の捨て石として住民が軍の指揮下におかれたこと、日本で唯一の地上戦であったことなどがあげられる。とくに住民は、町ぐるみ、村ぐるみで軍にくみこまれ、学徒も動員されて多数の戦死者をだした。約3カ月の戦闘で日本側の死者は約18万8000人、うち軍隊約6万6000人、防衛隊員約2万8000人、戦闘協力者をふくむ住民約9万4000人で、アメリカ軍は1万2520人だった。沖縄では、毎年6月23日を「慰霊の日」として休日とし、各地で合同慰霊祭がおこなわれている。 → ひめゆり隊
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