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隋代以前の官吏登用法には、漢代の郷挙里選や三国時代の魏にはじまる九品官人法などがあったが、これらは推薦を基本にしており、貴族や有力者に有利で、すべての人に公平に機会をあたえるものではなかった。やがて、官吏は貴族、門閥で世襲されるようになり、皇帝権力を弱めることにもなっていた。
科挙は隋の文帝によって587年ごろにはじめられた。中国を再統一した文帝は、貴族や門閥の勢力を排除するために九品官人法を廃し、家柄にかかわりなく有能な官吏を登用できる科挙をとりいれたとされる。しかし隋代の科挙については資料が少なく、詳細は明らかでない。 科挙は次の唐代にうけつがれ、ととのえられた。科挙の受験資格は、地方の県・州の予備試験に合格した者(挙人)、あるいは中央の学校の生徒から選抜された者にあたえられた。彼らは都で省試(しょうし)をうけ、合格したものが官吏になる資格をえたが、実際に官吏として登用されるには、さらに人物審査試験(銓試)に合格しなければならなかった。試験の科目には、はじめ秀才(しゅうさい)、明経(めいけい)、進士(しんし)などがあり、秀才は政治学、明経は儒学、進士は文学を内容とした。
宋代には皇帝自らが出題する殿試が追加され、以後の明、清にうけつがれた。殿試に合格した官吏は皇帝への忠誠心をもつようになり、忠実な臣下となった。これにより、中国の皇帝独裁がほぼ完成されたとされる。科目は最終的には進士に統合され、宋代以後は科挙といえば進士をさす。 モンゴルによって支配された元代に科挙は一時中断したが、仁宗のときに再開され、明・清代になるとふたたび盛んとなった。しかし、応募者が増加するのにともなって、ふるい落としのためにより多くの段階が追加され、制度は複雑になった。そして、その複雑すぎる制度や審査の不公平、また受験者の不正などの具体的な弊害がめだつようになり、さらに試験が古典学にかぎられるために新しい学問や思想が生まれにくく、ヨーロッパとの交流が活発化するとその遅れが意識されるようになった。そして清末に「西洋式教育」の必要性がとなえられるようになると、1904年の試験を最後に、約1300年つづいた科挙は廃止された。なお、科挙は中国だけでなく、朝鮮など周辺諸国でもとりいれられた。
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