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  • 狩野芳崖 悲母観音への軌跡-東京藝術大学所蔵品を中心に

    幕末の長府(現在の下関市)に長府藩御用絵師の嫡子として生まれた狩野芳崖(1828~1888)は、 近代日本画の基礎を築いた人物としてその名を残す画家です。 明治時代、フェノロサ、岡倉天心らとともに西洋画法を取り入れた日本画の改革・実験に ...

  • 狩野芳崖 - Wikipedia

    狩野 芳崖 (かのう ほうがい、 文政 11年 1月13日 ( 1828年 2月27日 ) - 明治 21年( 1888年 ) 11月5日 )は、明治期の日本画家。 幼名 は幸太郎。名は延信(ながのぶ)、雅道(ただみち)。号は松隣、皐隣。 近代日本画の父。

  • 東京藝術大学大学美術館 収蔵品データベース: 人物情報 - 狩野芳崖 ...

    [409] 狩野芳崖 1828 - 1888 , 長門国(現山口) 備考: 典拠: 名前一覧 狩野芳崖 : かのうほうがい : KANO, Hogai Authority: 1999芸大 狩野幸太郎 : : 皐隣 : : 翠庵 : :

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狩野芳崖

狩野芳崖 かのうほうがい
百科事典項目

1828~88 日本画家。長府藩の御用絵師狩野晴皐の長男として下関に生まれる。父に絵の手ほどきをうけたのち、1846年(弘化3)江戸にでて、狩野勝川院雅信(ただのぶ)に入門。57年(安政4)ごろからは雪舟雪村をまなんで、狩野派の古法にしたがうことをいさぎよしとせず、法外にでるという意味から芳崖と号するようになった。明治維新後には上京するが、一時は陶器、漆器の下絵をえがいて生計をたてていた。

1884年(明治17)第2回内国絵画共進会の出品作をフェノロサが注目し、同年に結成された鑑画会を舞台に、フェノロサと提携して日本画の革新をはかるようになった。とくに、それまでの古画研究の蓄積と西洋絵画の構図や遠近法、陰影法、彩色法などを融合し、「谿間雄飛」や「不動明王」など独自の日本画を確立した。かたわら、フェノロサや岡倉天心とともに官立の美術学校設立に尽力したが、88年に代表作となる「悲母観音像」を完成させたのち、東京美術学校の開校をまたずに没した。

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