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12世紀末に源頼朝が鎌倉におこし、1333年(元弘3)までつづいた武家政権。 成立時期については、頼朝が平氏打倒の挙兵をし、鎌倉を根拠に関東の経営に着手、侍所を設置した1180年(治承4)説、頼朝が後白河法皇から東国行政権を公認された83年(寿永2)説、侍所にくわえて公文所・問注所が設置され鎌倉幕府の基本的機構が整備された84年(元暦元)説、頼朝が守護・地頭設置の勅許をえた85年(文治元)説、頼朝が朝廷から日本国惣追捕使(→ 追捕使)の地位をみとめられた90年(建久元)説、頼朝が征夷大将軍に任命された92年(建久3)説などがある。 鎌倉幕府の国家的機能といった側面を重視すれば、90年に頼朝が朝廷から日本国惣追捕使の地位をみとめられ、全国の軍事・警察権をにぎった意味は大きい。これによって幕府は、鎌倉殿(将軍)が御家人をひきいて諸国守護の役割をになうようになったからである。
鎌倉幕府は、武士たちを組織するにあたり、彼らの領地の保持をみとめる本領安堵(あんど)、あるいは新たな領地をあたえる新恩給与といった御恩をあたえるかわりに、彼らに軍役や京都を警備する大番役などさまざまな奉公を義務づけた。主従関係を基礎に御家人制を整備したのである。 幕府は、御家人制によって朝廷からみとめられた幕府の諸国守護権を行使すると同時に、諸国守護権を通じて全国の武士を御家人として組織することもできた。その意味で鎌倉幕府は、国家的機能の諸国守護権と私的な御家人制をうまく統合した存在であった。
頼朝の死後、将軍には頼朝の実子の頼家と実朝の2人がなる。しかし実朝が暗殺されたあと、京都の摂関家から九条頼経をむかえ、子の頼嗣(よりつぐ)と摂家将軍が2代つづく。その間、名目的な将軍のもとで頼朝の未亡人の北条政子と弟の北条義時が実権をにぎる。義時は侍所、政所の両別当をかね、2代執権として幕府政治をうごかし、以後、執権職は北条氏の世襲となった。 1221年(承久3)の承久の乱で、幕府方が後鳥羽上皇方に圧勝し、朝廷に対する幕府優位の体制が確立した。25年(嘉禄元)政子の死後、3代執権北条泰時は連署(執権の補佐役)の設置、評定衆の設置などの改革をおこない、合議政治を推進した。32年(貞永元)には「御成敗式目」を制定して幕府の根本法典とし、執権政治体制が展開された。
1246年(寛元4)執権に就任した泰時の孫の時頼は、陰謀を理由に前将軍九条頼経を京都におくりかえし、翌年、三浦泰村一族をほろぼして(宝治合戦)、幕府内における北条氏の地位を不動のものとした。のち頼経の子頼嗣も将軍の座をおわれて京都におくりかえされ、かわって宗尊(むねたか)親王を将軍にむかえ、将軍はさらに形式化した。以後幕府滅亡まで、親王将軍は4代つづく。 1256年(康元元)北条氏の家督である得宗と執権の地位にあった時頼が執権をやめると、幕府の政治はしだいに評定衆の合議よりも得宗の私邸での内々の合議(寄合)に左右されるようになり、得宗専制の傾向が強まった。さらに、得宗権力を背景に台頭してきたのが、得宗の家臣である得宗被官たちである。彼らは、一般御家人(外様:とざま)とは区別されて御内人(みうちびと)とよばれ、幕府の実権をにぎっていった。85年(弘安8)9代執権貞時のとき、霜月(しもつき)騒動で安達泰盛一族がほろびると、得宗と御内人による得宗専制政治が確立した。 得宗専制が強化された時期は、幕府の基盤である御家人制がくずれはじめた時期でもあった。貨幣経済の発達と、1274年(文永11)・81年(弘安4)の2度のモンゴル襲来による戦費の負担のため、御家人の困窮は深刻なものとなり、所領をうしなう御家人も増加した。 御家人の没落は幕府の軍事や経済基盤の崩壊に直結するので、1297年(永仁5)幕府は徳政令をだして、御家人の所領の売却や質入れを禁止し、売却・質入れした所領を無償でとりもどさせた(永仁の徳政令)。しかし、御家人の没落に歯止めをかけることはできなかった。また得宗専制に対する御家人の不満も増大し、惣領制の解体、悪党の横行など、幕府の支配体制は大きくゆらいだ。 そうした動きや御家人の離反を背景に、幕府に批判的だった後醍醐天皇を中心に公家勢力が討幕の計画をすすめるが失敗(正中の変・元弘の乱)。しかし、これをきっかけに討幕の兵が各地におこり、1333年(元弘3)足利尊氏や新田義貞らによって鎌倉幕府はほろぼされた。
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