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官衙は律令制下の地方行政組織の国・郡・里(郷)にあった役所のことで、国衙遺跡は国の官衙跡。これに都の中央官庁の遺跡をふくめることもある。国は大宝律令(701)で58国3島とさだめられ、9世紀前半には66国2島となった。国の行政をおこなう役所や施設のあった地域が国衙で、その中心で国司などが政務をとる場所が政庁である。国府といえば、国衙と周囲の都市部をいうことが多い。
国は人口・耕地面積・場所によって大・上・中・下にわかれ、派遣される国司にもランクがあり、職員数もことなった。現在までこのような国の役所跡である国衙遺跡としてはっきりわかっているのは20前後である。1963年(昭和38)からの近江国府の発掘で政庁跡がみつかり、のち出雲・伯耆(ほうき)・因幡(いなば)・備前・下野(しもつけ)・肥前などで国衙遺跡が発見された。 それによると、政庁は何度か建て直しされていることが多く、まわりを築地塀(ついじべい)・板塀などでかこんだ方形の区画内に、正殿や東西両脇殿がコの字形に配置されていた。これは宮都の大極(だいごく)殿、朝堂院の配置を単純化したもので、8~9世紀には掘立柱建物から礎石建物になり、各国で国分寺をつくったのをきっかけに屋根が瓦葺(かわらぶ)きにかわる。 1976年からの下野国衙跡の調査では、8~10世紀まで4回たてかえられた約90m方形の政庁跡、政庁から南にのびる幅約9mの道路の跡、および周辺の建物群がみつかった。建物跡からは「介」と書かれた墨書土器もでて、国司の館跡とも考えられている。ただ下野国は木簡資料で7世紀末にあったと確認されているが、今回の調査ではこの時期の遺構はみつからなかった。初期の国府は別の場所なのかも知れない。近江国衙跡では周辺に宮都と同じような碁盤の目の街区があったことがみとめられたが、下野をはじめほかでは発見されていない。
国衙の下になる郡衙・郷家など官衙関係の遺跡も、近年各地で盛んに発掘されている。大規模な高床式建物群・大型掘立柱建物群などがあつまる遺跡をその推定地とし、遺跡群は郡司・郷長の館や倉庫・厨(くりや)・政庁などの跡と考えられている。静岡県の御子ヶ谷(みこがや)遺跡ではいくつもの掘立柱建物群がみつかり、倉庫群は発見されなかったが、「志太」「志太少領」などと書かれた墨書土器が大量にでたため、ここが駿河国志太郡家(ぐうけ:郡衙)と確定された。
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