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おもに前3世紀~後2世紀に、現在のモンゴル国から中華人民共和国の北方地域にいた遊牧騎馬民族、また彼らがつくった国家。
中国の戦国時代、彼らが中国北方地域にしきりにあらわれ、燕や趙などに侵入していたことが記録にのこっている。秦によって中国が統一されると、始皇帝は将軍の蒙恬(もうてん)に匈奴の討伐を命じ、匈奴は大打撃をうけた。しかしその後、匈奴王の冒頓によって再建され、モンゴル高原全域を支配するにいたった。 冒頓による北方地域の侵入に手をやいた漢の高祖(劉邦)は、前200年、自ら兵をひきいて討伐にむかったが、逆に匈奴騎兵に包囲され、命からがらにげかえった。この敗戦ののち、高祖は匈奴と講和条約をむすび、匈奴が中国の北方地域へ侵入しないかわりに、漢は毎年大量の酒・米・絹織物を匈奴におくると約束した。以後、匈奴は全盛期をむかえ、領土は、東は現在の河北省東北部、西は新疆ウイグル自治区にまで達した。 漢の第7代皇帝、武帝は、それまでの和平政策をすて、匈奴への武力攻撃をはじめた。たび重なる漢軍の攻撃によって匈奴は一時、内モンゴルより完全に撤退させられるにいたった。 その後、匈奴は内部対立をくりかえすようになり、前54年には東西に分裂。東匈奴は漢の支配下にはいり、その力をかりて西匈奴とあらそった。そして前36年、ついに西匈奴の王は漢の遠征軍にやぶれ、殺されてしまった。 一時の復興期をへて、後48年に匈奴はふたたび分裂。南北2つにわかれた匈奴のうち、北匈奴は2世紀半ばに後漢の攻撃によって西へとのがれ、以後中国の歴史記録にはあらわれなくなる。また、南匈奴は五胡十六国時代に中国化がすすみ、南北朝時代には民族としてのまとまりをうしなった。
匈奴の王は単于(ぜんう)といい、そのもとに単于氏族の王将が各地を統治し、彼らと異氏族の族長が連合して国政にあたった。匈奴のほとんどは遊牧民で、移動式の遊牧生活をいとなみながら、王のもとでさまざまな祭りをおこなっていたことが記録にのこっている。 なお、4世紀にヨーロッパへ侵入したフン族は、ヨーロッパと中国それぞれの古文献に記述された習俗や発掘された遺物の類似から、2世紀に西方へとのがれた北匈奴ではないかと推定されているが、いまのところ確実な証拠はない。
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