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世界には現象はあるが実体はない、とする仏教の基本的でもっとも重要な概念。サンスクリットのシューニヤの漢訳語で、インドの数学では0(ゼロ)のこと。 昔から、「空」を理解すれば、仏教の教理はほとんど理解できたとすらいわれてきた。それだけに言語をもって空を説くことは困難とされ、空を説くことは言語道断(言語でもって説明する道の絶えたこと)とされた。空はいっさいの実体(有)を否定し、それに執着しない人間の精神作用であるとも考えられたので、空を空と意識すること自体が空に執着することになると説かれた。 「色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)」という「般若心経」の言葉は、空というむずかしい概念をなんとなくわかるように表現したものとして、日本人にしたしまれている。
0(ゼロ)は、5、6世紀ごろのインドで、数字の位取りをあらわす記号として考案され、のちに数としての意味をあたえられた。たとえばa - bではaもbも数だからその差も数だが、a = bの場合には、a - b = a - aとなり、aの数値いかんにかかわらず0となる。この差0もまた数であると意味づけられる。それ自体は無である0が発見されたことによって、どんな数でもあらわすことができるようになった。この0の発見の背後にある思想が空の思想なのである。→ ゼロ
空は、前5~前4世紀ごろの原始仏教において、すでに感覚的、肉体的束縛からはなれて、精神的自由(解脱)を獲得するための瞑想の対象であった。原始仏教では、愛欲、生存欲、無知のけがれを順次に克服せよとおしえた。この実践によって「真実で、誤りなく、純粋で、最高無上の空に達する」ことができ、この修行の過程を「空住」(空の体験)と名づけた。さらに、「我」が空であることも観察の対象になり、「世間は空である」ともおしえられた。次の部派仏教では、物質的存在や人間的存在の諸要素を分析することに学問的重点がおかれたため、「我」の否定(人空)の段階にとどまり、その構成要素の否定(法空)まではいたらなかった。しかし、当時の阿毘達磨(あびだつま)の文献中には、6種または10種の空を説き、のちの大乗仏教の16空や18空の萌芽ともいうべき思想がみえる(→ 小乗仏教)。
空の思想がはじめて独立の意味をもったのは、大乗仏教の「般若経」系の諸経典においてであった。これらは般若波羅蜜(はらみつ)を説くことを眼目にすえた。般若波羅蜜とは、宗教的英知の完成によって彼岸にいたることである。それはあらゆる執着をたちきって、悟りを実現するために、すべての存在が空であること(色即是空)を把握することをめざす。したがって、般若波羅蜜とは空の実現にほかならないといえる。この場合の空は「自性空(じしょうくう)」と名づけられ、すべての存在にそれ自身に固有の実在性はないという意味をあらわしている。部派仏教が「我」の存在を否定したのをこえて、「般若経」系の経典では、一切の物質的存在を否定したのである。
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