Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 項目構成
7~9世紀、日本が中国の唐におくった外交使節。630年(舒明2)の犬上御田鍬らの遣使を第1回とし、18~20回任命された。しかし、遣使の狙(ねら)いの違いや計画の中止などもあり、正式に派遣されたのは15回ほど。船団は初期が2~3船、のち4船に固定され、「四(よつ)の船」ともいわれた。人員は250~500人ほど。大使、副使、判官、録事が正式な遣唐使節団で、知乗船事、訳語(おさ)、画師(えし)、水手(かこ:水夫)、留学生(るがくしょう)らがそれらにしたがった。
遣唐使のおもな目的は、国際的な地位の確立と文物の導入である。中国は当時の東アジア世界の中心で、日本にとっては世界の大半といってもよかった。中国に朝貢物をささげて通交し、文化的にすぐれた国と印象づけることは、重要な外交課題だった。白村江の戦以来、関係が悪化していた新羅との席次争いでは、753年(天平勝宝5)には大伴古麻呂が新羅の上位になるよう抗議したという。 遣唐使みずから朝貢貿易の形で所持金と唐の下賜品(かしひん)で買いもとめた文物もあるが、多くは同行した留学生や留学僧が長年かけてあつめたものが、そのつど日本にもちこまれた。たとえば、吉備真備は兵学や音楽、暦学関係の多数の文物を、大和長岡(やまとのながおか)らは法制の知識をつたえ、空海・最澄は新しい仏教の導入につとめている。
遣使には、航行ルートの関係から多くの犠牲をともなった。朝鮮半島西岸を沿岸航行する北路は比較的安全だったが、新羅との政治的な対立のため、ごく初期をのぞき、五島列島から東シナ海を横断する南路か、奄美大島や沖縄などの南西諸島から東シナ海を横断する南島路をとった。季節風の知識もじゅうぶんではないため季節をえらばず、また海流をのりきれるだけの船体構造の知識もなかった。逆風や強い海流のため難破漂流し、死者・行方不明者が続出した。往復とも無事だったのは、およそ半分と考えられる。894年(寛平6)遣唐使となった菅原道真は、唐の衰退と航海の危険を理由に遣唐使の一時停止を提案し、ゆるされた。その後唐はほろび、遣唐使も廃止された。
2004年(平成16)に中国シーアン市(西安市)の建設現場で、36歳で病死した日本人留学生の墓誌がみつかった。留学生の名前は井真成(せいしんせい)といい、約39cm四方の正方形の墓誌の蓋石(ふたいし)には、12文字で官職や名前がきざまれ、下の誌石には171文字(12行)で業績などが記されていた。その記述によると、井真成は阿倍仲麻呂や吉備真備らと同じ717年(養老元)に唐にわたった留学生らしく、学問をおさめたあと皇帝につかえ、優秀な官吏としてきわだっていた。そして、734年(天平6)になくなったとき、玄宗皇帝がその死をおしんで「尚衣奉御(しょういほうぎょ)」の官職を追贈したという。尚衣奉御は、皇帝の衣服などを管理する官職である。 井真成の日本での名前や経歴はわかっていないが、皇帝から官職がおくられたことから、身分の低いただの随行留学生ではなく、貴族階層出身者だった可能性が高いといわれる。また、この墓誌には「日本」という記述があり、日本の呼び名が「倭」ではなく国号の「日本」と書かれたもっとも古い史料としても注目された。
© 1993-2009 Microsoft Corporation. All Rights Reserved. |
© 2009 Microsoft
![]() ![]() |