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従来、中国第2の大河である黄河の流域が、中国古代文明誕生の地であると考えられ、そこから「黄河文明」という概念が生まれ、20世紀前半にはひろく支持されたが、現在では見直しがすすんでいる。
20世紀の初め、黄河の流域で、新石器時代(→ 石器時代)や伝説上の殷王朝の遺跡があいついで発見されたことにより、ナイル川流域のエジプト文明、ティグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミア文明(→ メソポタミア美術)、インダス川流域のインダス文明とならぶ古代文明として「黄河文明」という概念が形成された。
中華人民共和国が成立した1949年以降、中国全土で遺跡の発掘が盛んにおこなわれるようになり、黄河流域外の資料が蓄積されてくると、中国の古代文明が「黄河文明」という枠におさまらないことが明らかとなってきた。また、50年代末に黄河流域の新石器文化が、中流域と下流域では系統がことなることがはっきりしてくると、黄河流域の新石器文化を一括してとりあつかうことも不可能となった。ついで、文化大革命の終結後から現在にいたるまで、長江流域など黄河流域外の大規模な遺跡発掘があいつぎ、「中国古代文明=黄河文明」というイメージは崩壊した。 1980年代以降は、すでに新石器時代のはやい段階において、黄河流域以外の地域にもいくつかの文化が独立して存在し、それらがお互いに影響しあいながら発展し、中国古代文明を形成した、という見方が定説となりつつある。
黄河流域の自然環境は、中流域と下流域とでは、様相がことなっている。 中流域の新石器文化は、河南省の裴李崗(はいりこう)遺跡と河北省の磁山遺跡(→ 磁山文化)の文化がもっともはやい段階に属する。前5000年ごろの文化で、豚・ヒツジなどの家畜の飼育、アワの栽培がすでにはじまり、土器の質はあまり高くないが、さまざまな器種がつくられていた。これらの遺跡は、黄土台地と平野の境に位置し、初期農耕に適した地域といえる。 次の時代の仰韶文化は、陝西省・河南省など黄土台地から平原西部にかけて分布し、前4000年ごろ~前3700年ごろに存在した。表面がみがかれ、黒や赤などで彩色された彩陶とよばれる土器を使用し、おもに農耕と牧畜によって定住生活をいとなんでいた。陝西省の半坡遺跡などで当時の集落跡が発見されている。 新石器時代最後の段階に属する竜山文化は、前2700ごろ~前2000年ごろに存在し、やはり黄土台地から平原西部にかけて分布している。彩陶はもちいられなくなり、ろくろでつくられた灰色の土器(灰陶)がおもに使用された。 黄河下流域では中流域とことなる文化の系統があった。中流域の磁山・裴李崗文化→仰韶文化→竜山文化のそれぞれの年代に対応して、北辛文化→大汶口文化→山東竜山文化が存在していた。 北辛文化の遺跡はまだ数が少なく、くわしいことはわかっていない。大汶口文化では彩陶も使用されていたが、山東竜山文化では黒陶が使用されるようになる。大汶口文化はアワなどの栽培や豚などの飼育をおこなった定住社会であり、さらに発達した山東竜山文化では、城壁にかこまれた都市と思われる遺跡が発見されている。
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