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  • 高句麗 - Wikipedia

    高句麗の文化は石の文化だといわれる。石で築かれた墓(積石塚)と石で築かれた 山城 が代表的である。高句麗山城は近年、中国や北朝鮮で大量に発見されており、韓国でも高句麗の勢力が及んでいた地域で高句麗式山城がいくつか発見されている。

  • 社団法人 高句麗研究会

    高句麗・渤海の歴史の真相と現代への教訓を探る。

  • 高句麗 歴史

    通史Top E-メール 最終更新日 最終更新日 高句麗の起源 公開 05.3.24 平壌時代(歴代国王) 高句麗の建国 公開 05.3.24 21 文咨明王 原文翻訳中 卒本時代(歴代国王) 22 安臧王 原文翻訳中 1 東明聖王 口伝 ( 始祖神話)

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高句麗

高句麗 こうくり
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

前1世紀後半から後668年まで存続した朝鮮の古代国家で、中国東北地方の中南部一帯から朝鮮半島の中部にかけて支配した。高麗、句麗、狛、貊(はく)などと書く場合もある。半農半猟の生活をおくっていた貊族は、中国の前漢王朝の力が弱まった前1世紀後半、鴨緑江の支流にあたる佳江(とうかこう)流域の桓仁(かんじん)を中心に小国連合をきずいた。高句麗人とはこの貊族の一部と考えられている。

II

高句麗の興亡史

204年に都を国内城(現、中国吉林省集安市)にうつして遼東方面をめぐって公孫氏や華北の諸王朝と攻防をくりかえした。また、中国が五胡十六国時代をむかえた4世紀前半には、戦乱にやぶれた多くの漢人が高句麗に亡命し、高句麗の政治や文化、外交などに影響をあたえた。355年には五胡十六国のひとつ前燕(ぜんえん)が故国原王を冊封(さくほう)、高句麗は朝鮮諸国のうちでは最初の中国王朝の内臣となった。

4世紀後半からは広開土王が遼東地方に領域を広げ、それにつづく長寿王の代には朝鮮半島にも広大な領土を獲得した。長寿王の427年には、平壌へ都をうつし、朝鮮半島における三国の対立が激化する中で領土は拡大をつづけた。しかし6世紀半ばになると、南から新羅の巻き返しにあい、さらに西方からは数度にわたる軍の侵攻をうけることになった。高句麗はこれらの侵略をすべてしりぞけたが、ついに668年、隋にかわったと新羅の連合軍にほろぼされた。

595年に高句麗から渡来して聖徳太子に仏教をさずけた僧の慧慈(えじ)に代表されるように、高句麗と当時の日本との間には文化的な交流が盛んにおこなわれていた。高松塚古墳の壁画にも、高句麗の壁画古墳(高句麗古墳)の影響がみられる。

III

遺跡

高句麗は当初、都を鴨緑江沿いの集安においたため、現在でもこの周辺には広開土王碑をはじめ、数多くの古墳群がのこっている。古墳は積石塚とよばれる、川原石をつみあげたものである。この中には松岩里古墳群のように平面型が前方後円型をしめすものがあり、日本の前方後円墳の源流とする学者もいる。

その後、都を現在の平壌付近にうつしたため、ここにも安鶴宮跡、長安城跡など多数の遺構がのこっている。徳興里古墳では5世紀代の彩色壁画が発見され、その構図などが、上にのべたように日本の高松塚古墳と近似している点で注目された。また、積石の積み方などが日本の弥生時代後期に出現する四隅突出墳丘墓(墳丘墓)によく似ていることも近年注目されている。

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