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奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺のひとつ。藤原鎌足の遺志でたてた山階寺(やましなでら)が前身で、710年(和銅3)平城京遷都のとき、山階寺を移建した藤原京の厩坂寺(うまやさかでら)をさらに平城京左京三条七坊にうつしたものという。天平期に七堂伽藍をととのえ、平安遷都後も藤原氏の氏寺として繁栄。維摩会(ゆいまえ)がよく知られ、高級僧侶になるための登竜門となった。平安時代に一乗院、大乗院の2門跡(皇族・公家の子弟がはいる寺院)が創立され、ともに摂関家の子弟がはいり、門跡領荘園を背景に両門跡として重きをなした。 神仏習合の影響をうけ、摂関家の氏神である春日大明神を仏法護持の神とし、1135年(保延元)には春日若宮を創建、春日社との一体化をすすめた。興福寺の僧兵らが春日大社の神木をかついだ強訴は有名で、こうした圧力により中央政界への発言力をのばし、大和一国を実質的に支配した。 このような実力ゆえにしばしば紛争にまきこまれ、1180年(治承4)の平重衡(しげひら)による東大寺焼き討ちでは類焼して全伽藍をうしなった。しかし摂関家や幕府などの後援をうけ、荘園という経済基盤もあり、ただちに復興した。鎌倉幕府から大和国守護職に任命されるなど、14世紀までは圧倒的な力をほこった。その後、僧兵軍事力の中心だった衆徒が自立した勢力として台頭したため、寺はしだいに支配力を弱めていく。江戸時代には寺社領として2万1000石をうけ、門前町だった現在の奈良市の繁栄をささえた。 1717年(享保2)鎌倉時代の北円堂と室町時代の東金堂(とうこんどう)、五重塔をのこし、大半の伽藍を焼失。さらに1868年(明治元)の神仏分離令と境内敷地・堂舎の上地令で、無住の寺となった。81年に復興がゆるされ、奈良公園部分などはそのままだが、堂塔などが返還されて現在にいたっている。
藤原氏ゆかりの寺院のため、各時代の代表的な美術品を所蔵する。建築では北円堂、三重塔(鎌倉時代)、東金堂、五重塔(室町時代)が国宝に指定されている。 彫刻では、白鳳時代の金銅仏頭、奈良時代の乾漆造の八部衆像、十大弟子像などが白眉(はくび)で、銀造仏手もめずらしい。白鳳時代の仏頭は旧東金堂の本尊のもので飛鳥の山田寺からはこばれ、室町時代の火災で仏頭だけがのこったという。平安初期の作品では、もと大安寺伝来の北円堂四天王像や東金堂四天王像をつたえ、中期では、堂の壁面にかざられたであろう板彫十二神将像や、1013年(長和2)在銘の和様彫刻例である薬師如来座像がある。また、仏師定朝がこの時期に興福寺復興にたずさわり、定朝様の阿弥陀如来座像も伝来する。興福寺と諸家に分蔵する四天王像は平安後期の像例で奈良仏師の手腕をみせる。 1180年(治承4)焼失後の復興時の奈良仏師、慶派による彫像が多数のこる。南円堂は89年(文治5)の康慶一派による古像復興色の強い不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)座像がある。法相六祖像もこの時期の肖像彫刻として有名。四天王像は動きの軽快な像で、もとの伝来は東金堂像説、北円堂像説がある。中金堂の四天王像はもと南円堂像で、康慶の弟、実眼の作という。木造の仏頭は作者に成朝説、運慶説などと諸説あるが、もと西金堂本尊として鎌倉復興期に造像されたものである。東金堂の維摩居士(こじ)像、文殊菩薩像、国宝館の梵天立像は仏師定慶作で、国宝館の金剛力士立像も定慶作の伝承がある。東金堂の十二神将像も定慶一派かとみられる。 北円堂諸像は1208年(承元2)ごろから1212年(建暦2)にかけて運慶一派によって造像がおこなわれた。弥勒如来(みろくにょらい)座像は運慶の晩年の作風をしめし、無著・世親立像は肖像彫刻の頂点として有名である。その他運慶の3男、康弁がつくった天灯鬼・竜灯鬼像や旧食堂(じきどう)本尊の千手観音立像などの慶派の作例がのこっている。 そのほか、金工品では、金堂鎮壇具、梵鐘(いずれも奈良時代)、華原磬(かげんけい:中国・唐時代)、南円堂灯籠などがあり、また書跡では、「日本霊異記」現存最古の写本(10世紀初頭)のほか、「僧綱補任(そうごうぶにん)」6巻、「興福寺別当次第」16巻などの重要史料がある。
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