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Windows Live® の検索結果 奈良時代につくられ、諸国におかれた官立寺院。僧・尼の2種があり、国分僧寺は金光明(こんこうみょう)四天王護国之寺、国分尼寺は法華(ほっけ)滅罪之寺という。あわせて国分二寺ともいう。 685年(天武14)天武天皇の「諸国の家ごとに仏舎をつくり、すなわち仏像および経をおき、もって礼拝供養せよ」の命をもとに737年(天平9)聖武天皇の「国ごとに釈迦仏像一躯(く)・挟侍菩薩(きょうじぼさつ)二躯をつくり、兼ねて大般若経(だいはんにゃきょう)一部を写さしめよ」の発願(ほつがん)で構想がかたまったと思われる。740年6月には法華経10部の書写と七重塔1区の建立、9月には観音像1体・観音経10巻の書写が命じられている。 つづく741年のいわゆる国分寺建立の詔(みことのり)は、七重塔と最勝王経・法華経各10部の書写を重ねて命令し、建立をうながしたものである。中国にこのモデルとなるような州寺建立の企画はいくつかあるが、直接には則天武后のつくらせた大雲寺が影響したようである。これを僧の道慈か玄昉(げんぼう)がとりあげたものらしい。国分寺の建立は、天武朝(673~686)以来の仏教の護国経典によって国家の平和をはかったものだが、さしあたっては天然痘などの流行や飢饉、藤原広嗣の乱(740年)などの災異をはらうのが目的だった。744年には国分寺料として国ごとに正税(しょうぜい)4万束の一部を造寺費用にあて、雑徭労働も動員して建立をいそがせた。 756年(天平勝宝8)までに26カ国が形をととのえ、奈良末期にはほぼ全国にそろった。ただし、すべてが新設とはいえず、既存寺院の転用もはかられた。寺域は国の等級などによりさまざまで、僧寺では最大が武蔵の方3.5町(約360m平方)(1町=60間=約109m)で、最小は甲斐(かい)の東西53間 × 南北1町11間。上総(かずさ)・播磨(はりま)・備中・備後(びんご)・周防(すおう)・讃岐(さぬき)・紀伊など、方2町のものが多い。平均的な伽藍は、北から僧坊・講堂・金堂・中門・南門がならび、金堂に回廊がとりつく。塔は原則として七重で、金堂の東西どちらかの外郭に1基おかれた。尼寺は全体に僧寺より小さく、最大は阿波の方1.5町、最小は出雲・隠岐・備中の方1町。塔はなく、北から尼坊・講堂・金堂・中門・南門が中軸線上にならんでいる。 これらは、諸国の経済状態・文化程度の差や地勢などの条件の違いで、伽藍配置も建物の規模も千差万別である。瓦などの優劣も大きい。統一された規格で同一時期に着手されたのではないらしく、同じ規格のものはみられない。 国分寺はすべて国庁近くにたてられ、僧寺の運営には封戸50戸・水田10町、尼寺には水田10町があてられた。僧尼の定員は僧20人・尼10人で、国司と国師の監督下におかれた。しかし律令体制がおとろえると国分寺経営もかたむく。それにともない仕事内容を国庁・定額寺(じょうがくじ)にうばわれ、存在価値をうしなって10世紀前半にはくちはてた。
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