Windows Live® の検索結果- 最澄 - Wikipedia
最澄 (さいちょう)は、 平安時代 の僧で、日本の 天台宗 を開く。 近江国 ( 滋賀県 )滋賀郡古市郷(現在の 大津市 )に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては 天平神護 2年( 766年 )説も存在する。 - 伝教大師最澄像(画像付き仏像事典)
仏像彫刻の注文が出来る仏像画像付きの解説辞典。伝教大師最澄。 ... なるほど瑞雲流仏像彫刻 日本天台宗の開祖、最澄 伝教大師最澄像(門下作) - 伝教大師 最澄‐古寺散策
(767 ~ 822) 天台法華宗 延暦寺 仏像案内 寺院案内 高僧 日本における天台宗の開祖で 866 年、没後 44 年目に弟子の 円仁 と共に日本最初の大師称号、伝教大師の諡号が与えられた。 すべての検索結果 : Windows Live® の検索結果
項目構成
767~822 平安仏教の代表的人物で、空海とならび称せられる日本仏教界の指導者。最大の功績は比叡山において、日本天台宗を開創したこと。諡号(しごう)は伝教大師。
最澄は、近江(おうみ)国に渡来人の子孫三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれ、幼名は広野といった。12歳のとき近江国分寺の行表(ぎょうひょう)のもとに弟子入りし、出家して名を最澄とあらためた。785年(延暦4)4月東大寺で受戒したが、同年7月突然比叡山にのぼって修行生活にはいった。788年に草庵をかまえて薬師如来を安置し、793年堂舎を整備して一乗止観院(のちの根本中堂)と称した。そして多くの経典をまなぶうち、天台教学にひかれるようになった。
797年(延暦16)最澄は内供奉(ないぐぶ)十禅師にくわえられ、翌年比叡山で法華経の経典を講説する講会(こうえ)をはじめ、802年には南都の十大徳とともに高雄山寺で天台を講じた。804年7月、桓武天皇の天台振興の志をうけて、遣唐使とともに短期留学僧として渡唐。台州や天台山で、中国天台7祖の道邃(どうすい)と行満(ぎょうまん)から天台の教えを、さらに越州の順暁(じゅんぎょう)から真言密教の法をうけ、また翛然(しゅくねん)から禅法をまなんで、翌805年5月230部460巻におよぶ経巻をたずさえて帰朝した。帰国後、天台の教学を諸学僧に伝授し、秘密灌頂をさずけた。806年、天台宗からも毎年正式な僧2人をだすことを朝廷に申請し、正式にみとめられた。これは天台宗が南都六宗にならんで、国家の宗教として公認されたことを意味していた。
最澄は密教修得の不十分さを自覚し、812年(弘仁3)高雄山寺におもむいて空海から灌頂をうけ弟子になったが、その後決別する。814年筑紫国にいき、翌815年には関東地方を巡行した。このころ、会津にいた法相宗の学僧徳一が「仏性抄」をあらわして天台宗を批判したため、最澄は817年「照権実鏡(しょうごんじっきょう)」を書いて、これに反論した。以後天台宗と法相宗の教義をめぐり数年にわたって論争がつづけられた。徳一は人間には小乗の教えにたつ人、大乗の悟りをひらく人、悟りをひらくことのできない人の区別があるという三乗思想を主張した。これに対して最澄は、小乗の教えも大乗にみちびくための方便であって、仏教によってすべての人が悟りをひらけるという一乗思想を展開した。
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