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江戸幕府がキリシタン禁制を徹底させるために日本人の海外交通を禁止し、外交を独占して貿易を統制・管理しようとした政策。また、その政策による国際的な孤立状態もさす。対抗勢力・反対勢力が外国から軍事的・政治的援助をうけないようにさせ、これらと思想的にむすぶこともさけられたため、幕府が権力を確立し、安定させるのにきわめて有効だった。鎖国によって国際的な孤立状態をたもてたのは、当時の世界交通の中で東南アジアが辺境で、アジア大陸からも海でへだてられた日本の地理的条件が大きかった。西洋列強によって東南アジアの植民地が再編成され、蒸気機関の採用などで船舶の航行能力が高まったとき、この状態がゆらいでいった。
関ヶ原の戦(1600)に勝利した徳川家康は、日本の支配権を手にしたことを東南アジア諸国にみとめさせるためもあって交易を熱心にすすめ、朱印船が各地へわたった。1600年(慶長5)、九州豊後(ぶんご)の臼杵湾(うすきわん)に漂着したリーフデ号の乗員からイギリス・オランダの知識をえると、両国との通商も計画された。しかし交易は幕府で管理する考えから、04年に糸割符制を採用、09年には朱印船交易から西国大名をのぞいている。いちはやく日本に進出したポルトガルなどはカトリック系の布教活動と交易は不可分の関係にあったが、家康は布教を切りはなして取り締まりを強化し、13年に禁教令をだした。翌14年には宣教師・信者をマニラに大量追放する。 2代将軍徳川秀忠はキリシタン禁制と貿易統制をむすびつけ、1616年(元和2)庶民層までの禁制徹底を命じた際、中国船をのぞくヨーロッパ商人の活動も長崎・平戸2港だけとした。23年にはポルトガル人への取締令をだすとともに、日本人のマニラ渡航を厳禁した。同年には、イギリスがオランダとの商戦にやぶれて平戸からしりぞいた。オランダが東アジア海域で優位にたちはじめたこともこれに影響している。やがてオランダはポルトガル・スペインの輸送線も寸断、いっぽうで幕府に対しカトリック系である両国の中傷をくりかえし、日本での両国の活動を制限する策をひきだした。
3代家光政権は1633年(寛永10)から36年まで、鎖国令とよばれる条令を毎年だした。いずれも日本人の海外渡航禁止、キリシタンとくに宣教師の取り締まり、外国船貿易の取り締まりからなる。このうち日本人の海外渡航禁止について、33年令は奉書船のみの海外渡航と海外在住5年未満の者の帰国をみとめたが、35年令ではすべての海外渡航と日本人の帰国を厳禁した。 また宣教師取り締まりの基本的な処置は、これらの条令とは別におこなわれた。出島の築造や、ポルトガル人と日本人の間に生まれた子らに対する1636年のマカオへの大量追放である。島原の乱(1637~38)後、幕府はいっそう外国人取り締まりを強め、それまで枠外にあったオランダ人と中国人の居住地を制限して管理下におき、ヨーロッパ人妻子らを国外へ追放した。39年にだされた条令でとくにポルトガル船の来航が厳禁され、ここに鎖国体制の基本はできあがった。事後処理として41年に、勝利者となったオランダ商館が出島に移転され、以後、鎖国下での長崎貿易が展開する。
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