Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 項目構成
中国随一の大河・長江の中流域にある三峡に建設中の巨大ダム。三峡とはシーリン峡(西陵峡)、ウー峡(巫峡:ふきょう)、チュータン峡(瞿塘峡:くとうきょう)の3つの峡谷を総称したもので、観光地として有名な場所である。ダムの所在地はフーペイ省(湖北省)イーチャン(宜昌)の西北約40kmのサントウピン村(三斗坪村)。 この世界最大のダムは治水、発電、灌漑、水運などを目的としている。計画段階から、建設にともなう大量の住民移転問題や、文化財・生態系・景観などへの大きな影響を憂慮した反対論が国の内外から出されたが、1994年に正式着工し、2006年5月にダムの堤(つつみ)本体が完成した。全面稼働は09年を予定している。 そのほか、1万トン程度の大型船が航行可能な水路が2004年7月に開通した。この水路は長江にそって、チョンチン(重慶)まで通じており、5段階の閘門(こうもん)で船を通行させている。
長江は、中国の歴史の中でも、たびたび大きな洪水をひきおこしてきた。その水をコントロールして、農業生産を増加させ、工業開発も同時にすすめようとする計画案は、古くは、孫文が1919年に発想したものだといわれる。国民党政府時代には、アメリカの技術コンサルタントが提出した計画で、設計に着手する直前までいった。 革命後は、1950年代に周恩来が建設計画を検討し、59年に策定された「長江流域総合利用計画」の最重要計画とされた。70年代末から本格的な建設に着手したが、国内での反対論も多く、建設の決定は中断したままになっていた。 1991年夏に長江流域に大きな被害をもたらした大洪水があり、92年の全国人民代表大会(全人代)では、建設案が採決された。しかし、大会出席者の約3分の1が反対または棄権に票を投じた。全人代でこれだけ多くの反対票があったのは当時としては異例だったが、94年12月正式に着工された。
三峡ダムは、堤の長さが2309m、高さ185mのコンクリート重力ダム(重力式コンクリートダム)で、これまで世界第1位だったイタイプ・ダム(ブラジル)のおよそ2倍のコンクリートがつかわれている。ダム湖は、長さ約600km(宜昌~重慶)、面積1084km²、総貯水量は393億m³もある(日本最大の奥只見ダムは6億100万m³)。2009年完成時の発電能力は世界最大で、出力70万kWの発電機を26基つかって、合計1820万kWの発電をおこない、年間発電量は847億kWに達する見込み。03年7月、部分的に発電が開始され、下流のシャンハイ(上海)などへの送電もはじまった。
水没予定地域では、住民約120万人が退去しなければならなくなった。流域には、チョウザメ科のカラチョウザメやヨウスコウカワイルカ(→ カワイルカ)といった、世界的に貴重な水生動物が生息しているが、かなりの種が絶滅する可能性がある。また、長江がはこぶ大量の土砂が堆積(たいせき)して、短期間のうちにダムが機能しなくなる危険性も指摘されている。さらに、東シナ海へ流入していた長江の水量が半分以下になるとみられることから、その影響がどのようなかたちになるのかはわかっていない。 三峡地区は、古代中国楚の愛国詩人である屈原の故郷に近く、渓谷の後方に山がつらなる奇観は、白居易もたたえた見事なものであるが、ダムが完成すると、景観は大きく変化する。 中国の調査では、ダムの建設によって水没などの影響をうける古墓、遺跡、古代の建築物などの文化財は、湖北、四川両省に1180カ所もある。その中には杜甫や李白の詩に、その美観をたたえられた白帝城や、長江の短い渇水期にだけ姿をあらわす川底の自然石に、詩や魚の絵などを彫刻した「白鶴梁題刻」、三国志の英雄・張飛が水軍を訓練したといわれる「練兵台」や張飛廟(びょう)などもある。 こうした文化財のうち246カ所の地上建築物については文化価値に応じて移転や現地保存、または廃棄処分とすることが決定している。岩山の上にある白帝城は、周囲が水没するために島となり、10年近くも保存方法をめぐり論争のあった「白鶴梁題刻」は周囲をコンクリートでかこんだ水中博物館となる。また、張飛廟は32km上流に移築された。そのほかの地域でも発掘調査がすすめられている。
© 1993-2009 Microsoft Corporation. All Rights Reserved. |
© 2009 Microsoft
![]() ![]() |