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生没年不詳。仏教の開祖。本来釈迦とは、ネパール地方にすんでいた部族の名だが、一般にはこの部族出身の聖者の個人名としてつかわれている。ただしくは「釈迦牟尼(むに)」といい、仏教徒は「釈迦牟尼世尊」または略して「釈尊」とよんでいる。ほかに「釈迦牟尼仏」「釈迦仏」「釈迦牟尼如来(にょらい)」という呼び方もある。 釈迦の姓はゴータマ、名はシッダールタだが、さとった者の意である「仏陀」という呼ばれ方もする。その生没年については種々の説がある。大別すると、没年を紀元前544年か前543年とする南方仏教の説、前486年ごろとする大乗仏教の説、前383年ごろとする日本および欧米の学者が提唱した説の3つにわかれているが、80歳で没したことは定説とされている。釈迦の伝記はほとんどが神話化されているが、仏教以外の資料をつかうことで、その歴史的人物像の概要もかなり把握されている。
釈迦は、北インドのカピラバストゥの釈迦族の国王、浄飯王(じょうぼんのう:シュッドーダナ)とその妃、摩耶夫人(まやぶにん:マーヤー)の長子として生まれた。伝説では夫人は白象が胎内に入る夢をみて釈迦をみごもり、ルンビニ園を遊歩中に右わきから出産した。生まれたばかりの釈迦は7歩あるいて、右手で天、左手で地をさし、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん:世間において私がもっともすぐれている)」ととなえたという。中国や日本ではこの日を4月8日とさだめ、灌仏会をおこなう。 マーヤーは釈迦の生後7日目に没するが、釈迦は王子として大切にそだてられ、16歳で結婚、長子羅睺羅(らごら:ラーフラ)が生まれた。このころから人生の問題になやむようになり、29歳(一説に19歳)のころ出家する。釈迦の出家について「四門出遊」の伝説がつたえられている。彼が郊外にでかけようとして、東西南北の4つの城門をとおったところ、老人、病人、死人、出家者を次々にみかけ、深く感じるところがあって出家をこころざしたという。 出家した釈迦は2人の有名な仙人について修行し、禅定をまなぶが、数カ月で2人の教理を理解し、それに満足できず、つづいて断食の苦行をおこなった。はげしい苦行を6年間(異説では12年)つづけたが満足はえられなかった。苦行の無意味さをさとった釈迦は、苦行を中止し、ネーランジャラー川のほとりで、村の娘からもらった乳がゆを食べて体力を回復してから、ブッダガヤ(ボードガヤ)の菩提樹の根元で瞑想にはいり、悟りをえて仏陀となった。釈迦が35歳(一説では30歳)のときといわれる。伝説ではこのとき、天の悪魔が釈迦の悟りを妨害しようとして大軍をつかわしたが、釈迦はこれをことごとく降伏させて、悟りをひらいたという。これを「降魔成道(ごうまじょうどう)」といい、中国や日本では12月8日のこととさだめ、成道会(え)をおこなって記念する。釈迦の伝記や諸種の経典では、成道以前の釈迦を菩薩とよび、成道以後を仏陀とよんで明確に区別している。 これから釈迦の伝道生活がはじまる。まず、苦行時代の友人である5人の修行者に自分のさとった内容をつたえるため、バラナシ郊外のサールナート(鹿野苑:ろくやおん)にいき、そこで最初の説法をした。これを初転法輪(しょてんぼうりん)という。そしてこの5人の修行者によってサンガとよばれる最初の仏教教団が形成された。ついで釈迦は、マガダ国、コーサラ国などを中心に伝道してまわり、カーシャパ3兄弟をはじめとして、舎利弗(シャーリプトラ)、目連(マハーマウドガリヤーヤナ)の二大弟子や迦葉(かしょう:マハーカーシャパ)など多数の弟子をえた。また故郷にもかえり、息子の羅睺羅、いとこの阿難(アーナンダ)や提婆達多(だいばだった:デーバダッタ)らを出家させて仏教教団にいれた。在家の信者で仏教教団に援助をおしまなかった者も多く、マガタ国王、コーサラ国王をはじめ、長者とよばれる商人階級の有力者もいた。彼らが最初の仏教寺院である竹林精舎(しょうじゃ)や祇園精舎などを寄進したという。 釈迦は45年(一説には49年)間にわたって伝道してまわったのち、クシナガラ郊外の2本の沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で80歳の生涯をおえた。この釈迦の死(入滅)を涅槃といい、中国や日本では2月15日に涅槃会をいとなんで、この日を記念する。 なお後世の仏教徒は、釈迦の生涯における重大事件として、誕生、降魔成道、初転法輪、入滅の4つをえらび、これがおこったルンビニ、ブッダガヤ、サールナート、クシナガラをもって四大聖地としている。
釈迦の思想は、仏教の中心をなすものであることは疑いないが、釈迦自身による著作はなく、すべて伝承である。また、「対機説法(たいきせっぽう)」「応病与薬(おうびょうよやく)」といわれるように、釈迦は相手の能力や素質に応じて、その説く内容をかえた。それだけに彼の思想を固定的、体系的に把握することは困難である。しかしながら、仏教の基本的な教理を形成している、四諦、八正道、縁起説を釈迦の教えに帰すことに問題はないであろう。彼は人間の生存、もしくは存在そのものが苦であるという事実を直視することを人にすすめ、その苦の原因は過度な欲望にあるため、その欲望をなくすことによって苦を脱却できることをおしえたのである。
インドにおける釈迦の美術的表現としては、その伝記をえがいたレリーフが古い。しかし、はじめのうちは人間の姿で表現されることはなく、法輪、菩提樹(→ インドボダイジュ)、仏足石などでその存在を象徴していた。悟りをひらいた釈迦はすでに絶対の存在であり、人間の能力では表現できないとする考えがあったためであろう。2世紀前半になって、ガンダーラ地方やマトゥラー地方で仏像が盛んにつくられるようになると、釈迦像もつくられるようになった。ガンダーラ地方の釈迦像がギリシャ美術の影響を強くうけているのに対し、マトゥラー地方の釈迦像はきわめてインド的な彫像である。4~6世紀のグプタ朝になると、釈迦像はとても洗練されたものになり、完成された様式美を生みだすことになった。この時代の造像の中心はマトゥラー(→ マトゥラー美術)とサールナートであった。中国、朝鮮、日本にのこる釈迦像がひじょうに洗練されているのは、この時代の影響を強くうけているためであると考えられている。→ インド美術:仏教
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