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殷(商)王朝をほろぼし(前1050?)、黄河中流域を支配した古代王朝。前770年に遷都して以後は1小国となり、前256年に秦にほろぼされた。周王朝の樹立から前771年までを西周時代とよび、遷都の前770年以降を東周時代とよぶが、東周時代はほぼ春秋戦国時代と重なる。
「史記」などのつたえるところによれば、周の祖先は后稷(こうしょく)といい、伝説の王、堯(ぎょう)のもとで農業をつかさどったという。13代目の古公亶父(たんぽ)は、周の本拠地を今の山西省から陝西省にうつした。それ以後、西方の一大勢力となり、殷の甲骨文字にも周の名が登場するようになる。
亶父から2代あとの文王は、徳治によって近隣諸国をひきつけ、都を西安西部の鄷(ほう:澧水西岸)にうつした。その子、武は軍をひきいて東へむかい、現在の河南省にあった殷都の南、牧野(ぼくや)において殷の軍勢をうちやぶった。殷の第30代紂(ちゅう)王は自殺し、周は新しく王朝をひらいた(前1050年頃)。 武王は都を東岸の鎬にうつし、王朝をひらいてからは東方を統治する必要から、現在の洛陽の近くに成周をきずき、鎬は宗周と改名した。本拠地である西の宗周が、東の成周とともに首都として機能していたので、この時代を西周時代とよぶ。 武王は牧野の戦の数年後になくなり、子の成(せい)が即位した。成王は幼年だったため、武王の弟の周公旦(しゅうこうたん)が補佐した。成王の即位後しばらくして周王朝に内紛が生じ、それに殷の遺民がくわわって大反乱がおきた。周公旦は軍勢をひきいて反乱軍を撃破、功臣・王族に封地をあたえ、成周の建設によって周の支配を安定させた。 こののち、4代目の昭王や5代目の穆(ぼく)王は周辺各地を遠征し、周王朝の権威は絶頂期をむかえた。しかし7代目の懿(い)王のころから、統制がゆるんで諸侯の力が増大するようになり、王朝はしだいにおとろえていった。 前771年、王朝の内紛に乗じて北方の犬戎(けんじゅう)が侵入し、宗周が陥落、12代目の幽(ゆう)王は殺され、西周時代は終わりをつげた。こののち、幽王に廃されていた太子宜臼(ぎきゅう)が、成周にのがれて翌年平王として即位、以後東周時代となるが、王朝とは名ばかりで実際は1小国にすぎなくなり、春秋戦国時代をへて、前256年に秦によってほろぼされた。
周公旦が反乱を鎮圧し、功臣・王族に封地をあたえて以来、西周は封建制社会としての体裁をととのえていった。各地方には邑とよばれる共同体が独立して存在し、この邑と王朝は王朝が邑に封土をあずける代わりに軍役・貢租を要求する関係で成立しており、西周は殷王朝と同じく、邑が発展した大小の都市国家の集合体だった。 西周時代初期の青銅器は、文様も銘文も殷代とほぼ同じである。しかし西周時代末になると、文様はしだいに簡略化されて殷代の生気をうしなう。対照的に銘文は長文化し、内容も複雑となって当時の裁判なども記録されるようになる。こうした変化は、新石器時代の面影をのこしていた殷代の社会から、法治主義の古代国家へと移行しはじめた当時の社会の一面をつたえている。
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