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    春秋戦国時代 (しゅんじゅうせんごくじだい)は、 中国史 において、 紀元前770年 に 周 が都を洛邑(成周)へ移してから、 紀元前221年 に 秦 が再び中国を統一するまでの動乱の時代である。この時代の周が「東周」と称されることから、「 東周時代 (とう ...

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春秋戦国時代

春秋戦国時代 しゅんじゅうせんごくじだい
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

前770~前221年の、古代中国におけるの東遷からによる中国統一までの時代をいう。

春秋戦国時代とは、「春秋時代」と「戦国時代」の2つの時代をあわせた呼び方である。春秋時代という呼称は、当時の有力諸侯であったの役人が当時の国際関係についてしるし孔子が添削したとされる「春秋」という書物からとられた。そのあと、戦国の七雄とよばれる・秦・の7大国が争覇戦をくりひろげた時代を戦国時代とよび、この時代の記録でもある弁士の遊説をあつめた「戦国策」から命名された。

春秋と戦国をどこでわけるかについて、現在では、大国だった晋(しん)が3つの国(韓・魏・趙)に分裂した前403年までを春秋時代、以後、前221年までを戦国時代とよぶことが多い。

また、春秋・戦国をあわせて東周時代とよぶことがある。これは以下でのべるように、当時の周が西の都であった宗周をうしない、東の都、成周にうつったことに由来する(したがって東の都に移る前は西周時代とよばれることになった)。

II

春秋戦国時代の社会

前771年、周王朝の西の都、宗周は、北方から侵入してきた犬戎(けんじゅう)によって陥落した。周の幽王は犬戎に殺され、王朝の生き残りの人々は東の都、成周へとおちのびた。

翌年の前770年、幽王の子が平王として成周で即位するが、これ以降、権威の失墜した周王は形だけの存在となり、各地の諸侯は自国の利益によって行動し、たがいに侵略戦争をくりひろげた。

西周時代、黄河流域には無数の小国家が乱立し、その数千余国とつたえられる。春秋時代にかなりへったが、それでも百余りはあったという。その中で比較的大きな国は晋(のちに韓・魏・趙)・斉・秦・楚・燕・魯・衛・曹・宋・陳・蔡(さい)・鄭(てい)・だった。

春秋時代には、おちたとはいえ周王室の権威はまだのこっており、諸侯は周王に対して臣下の形式をとった。諸侯があつまって誓いをたてる会盟に際しては、周王室を異民族からまもることが重要な名目のひとつとなっていた。しかし、戦国時代になると周王室の権威はうしなわれ、小国は次々と大国に併合され、かちのこった戦国の七雄は、それぞれの存亡をかけてたがいに侵略をくりかえした。

家柄と儀礼によって機能していた西周時代以来の社会システムは完全に崩壊した。実力主義にもとづく下剋上(げこくじょう)は当たり前となり、君主は、富国強兵や外交交渉に必要な人材を家柄に関係なく才人にもとめた。戦国時代とは、このような実力第一主義の世界だった。のちに秦をたおし漢をたてた高祖(劉邦)が農民から身をおこして皇帝までのぼりつめたのも、このような時代背景があったからなのである。

また、諸侯が富国強兵策につとめた結果、産業が発展し、とくに農業では鉄製農具がつかわれはじめ、牛耕農法とあいまって、生産力が急速に高まった。交換経済が発達して、各国はさまざまな貨幣を発行するようになった。商品の集散地は都市として発展し、巨富をたくわえる大商人もあらわれるようになった。

III

春秋戦国時代の文化

この時代は思想・科学技術などが大きく発展し、その遺産は今につたわっている。

君主たちは、より強い国家をもとめつづけた。そのため政治哲学が重視され、さまざまな思想家が輩出、「諸子百家」と称される思想界の黄金時代となった。孔子孟子荀子老子荘子墨子韓非子など、今につたわる多くの思想家が活躍した。

科学技術の遺産としては、湖北省で発掘された曽侯乙墓(そうこういつぼ)で発見された青銅器や漆器が有名である。古代の職人たちの高度な技術をつたえ、美術的価値もきわめて高く、当時の文化を知るうえで貴重な資料となっている。

IV

日本との関係

日本との関係でみると、この間に(日本)は縄文時代から弥生時代にうつっている。日本列島に金属器や水田農耕、階級性社会など明らかに大陸文化の影響をうけたさまざまなものがつたえられた時期だった。このため日本の考古学の資料にも、春秋戦国時代の影響をうかがわせるものがみられる。

山口県の沖ノ山遺跡では弥生土器の中から秦・漢時代の代表的な貨幣である半両銭、五銖(ごしゅ)銭が116枚みつかった。福岡県の三雲遺跡から出土したファイナンス玉(粉末石英の練り物の表面にソーダ釉をかけたもの)は装飾品のひとつで、大陸では戦国時代の遺跡からの出土が報告されている。ほかにも、大陸に特有の銅(どうふく)とよばれる銅釜(がま)が長崎県のクビル遺跡で出土している。

また、佐賀県の吉野ヶ里遺跡の墳丘墓でみつかった把頭飾(はとうしょく)付き有柄(ゆうへい)銅剣(あるいは有柄石剣)も、初めは朝鮮半島の影響をうけたものとされていたが、最近の研究では中国の戦国時代の曲刃(きょくじん)青銅T字形剣を原型とする説が有力である。多鈕細文(たちゅうさいもん)鏡は日本の弥生時代前期に数枚だけ出土しているが、これも春秋時代の代表的な銅鏡である。これまで日本には半島からもたらされたと考えられていたが、大陸での発見が明らかになって、半島出土品も日本出土品も遼寧半島から直接つたわったという説が主流となった。

このように、春秋戦国時代の事物が半島を経由しながらもかなり列島内にはいっていることは、たんなる事物の伝来だけでなく民族の移動による大規模な社会変動の可能性も否定できない。この民族移動は縄文社会から弥生社会への移り変わりを説明する根拠のひとつとなっている。

弥生文化弥生人

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