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前17世紀末ごろから前11世紀半ばにかけて黄河中流域を支配していた古代中国の王朝。日本では殷とよばれることが多いが、これは次の周王朝がつけたもので、自らは商と称していた。 「史記」などによれば、殷の始祖である契(せつ)は夏王朝の創建に際して功をたて、領地をあたえられた。そして、14代目の成湯(せいとう)が腐敗した夏王朝をほろぼして王位につき(湯王:とうおう)、殷王朝をひらいた。殷30代目の紂(ちゅう)王は、政治をかえりみずに酒色にふけり、国は大いにみだれ、西方の新興国家、周にほろぼされた、とつたえられる。
19世紀の終わりごろ、古代の文字をきざんだ骨片が北京の市内にでまわった。古文字学者らが研究した結果、伝説の殷王朝の王の名前がよみとれることが判明し、殷が実在した可能性がきわめて高くなった。 甲骨文字とよばれるようになるその文字がきざまれた亀甲や獣骨は、羅振玉らの調査によって、河南省の安陽で出土することが確認された。1928~37年に、中華民国中央研究院の歴史語言研究所が大規模な発掘をおこない、殷王朝の宮殿や王族の墓などを発見した。 この殷墟とよばれる都市遺跡の発掘によって、伝説の殷王朝の実在は証明された。中国はもちろんのこと、世界の考古学史上においても記念碑的な発掘であった。現在、宮殿区は整備されて一般に公開されており、また、現地の考古学者が今も調査をつづけている。
殷墟以外の殷の遺跡は、現在までのところ河南省や河北省などでみつかっているが、首都の機能をもったと考えられるのは、殷墟と鄭州の二里崗(にりこう)遺跡である。殷王朝の首都は6回うつったと「史記」はつたえているが、殷墟はその最後の首都と考えられている。 黄河中流域以外にも、黄河下流域の山東半島や、南方の長江中流域の湖南省・湖北省・江西省などにも殷が進出したらしく、関連する遺跡が発見されている。
殷は前11世紀前半にもっともさかえ、その文化圏は、遼寧南部、黄河中流域、山東西部、東シナ海、安徽北部、陝西中部にまでおよんだ。殷の人々は「天」の意思を重視した。王はさまざまな決定をする際にかならず占いをし、天の意思を確認して命令をくだした。祭政一致の典型的な神権政治であった。ほかにも、祖先の霊や自然界の神々も重要視され、彼らに対して動物や奴隷などをいけにえとしてささげ、祭りをとりおこなうことも王の重要な役割だった。祭祀は、暦と密接なかかわりをもち、太陽の運行によって調節する太陰太陽暦(→ 暦)を基本とした。 当時の社会は、特権階級の王族・貴族が、奴隷やさまざまな職人集団を支配していた。大型の墓には多くの奴隷が殉葬(じゅんそう)されており、甲骨文にも奴隷の記事がみられることから、当時の社会に奴隷がいたことはまちがいない。
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