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明治前期に政府が推進した産業の育成政策。明治新政府はアジアに進出した欧米列強に対抗するため、富国強兵をいそいだ。そのため、急速に産業を振興して生産をふやさなければならず、政府の直営によって上から指導する政策が採用された。その源流は江戸時代にあり、広義には、江戸中期~後期に各藩でおこなった藩政改革の経済政策でとられた産業育成策をふくむ。
江戸時代に各藩は、当初は藩財政をうるおすため、のちには財政窮乏を打開するため、産業の振興や物産の増産に力を入れた。そして、藩の手で特産物を全国市場へ販売することをこころみた。このような殖産興業的な経済政策は藩専売(→ 専売)とよばれた。この藩専売という方策は、江戸中期~後期の藩政改革の中で重要性を増し、従来の特産物の全国市場での競争力をあげるために同業種他地域から新技術を移入し、また新機軸の産物の開発を奨励するなど、地域ごとに多様な展開をみせた。 幕末になると、幕府や、のち明治新政府の母体となる西南雄藩はいわゆる内憂外患のため、きそって武器製造を主目的とした洋式工業の興業策をとり、育成してきた産業に接ぎ木するかのように洋式工業を導入した。このうち著名なものには、幕府関係では海軍創設計画にともない設立された長崎、横浜、横須賀の各製鉄所がある。また雄藩のうち薩摩藩では、集成館のもとに、兵器製造のほか、農具やガラスから氷砂糖にいたる種々の実験工場がもうけられた。これらの施設は明治新政府にひきつがれたものも多い。
1870年(明治3)、政府は統括官庁として工部省を設置、本格的に近代工業の移入にのりだした。工部省は民部省から鉄道や鉱山などの事業を移管され、多数の外国人技師をやとい、佐渡金山、生野や院内銀山、高島炭鉱、釜石鉄山、長崎や兵庫造船所などが官営事業の中心となった(→ お雇い外国人)。また、工作部門を担当する工作分局を、ガラス製造の品川(東京都品川区)、セメント製造の深川(同江東区)、諸機械製作の赤羽(同北区)においた。省内には教育機関の工学寮(のち工部大学校)が設置され、技術者も育成したが、統一性のない欧米技術の導入ではあまり成果がなかった。 1873年、岩倉使節団の帰国後、政府は内務省を新たに設置、殖産興業の推進機関とした。農業生産や紡織工業にも重点がおかれ、駒場種苗場、下総(しもうさ)牧羊場、富岡製糸場、千住(せんじゅ)製絨(せいじゅう)所、堺紡績所などが官営経営の代表となった。これらは民営事業の振興をめざした模範工場や牧場だった。また開拓使も北海道で積極的に農牧場や模範工場を開いている。さらに、内務省勧業寮(のち勧農寮)の指導で政府の勧業資金が交付され、各府県の農業生産の振興がはかられた。 内務省による殖産興業政策も多額の資金をついやしたわりには綿業と蚕糸業以外に成果があまりなかった。欠損をだしつづけるものも多く、民間へのよけいな干渉と浪費だとして政府は非難された。また、西南戦争(1877)の膨大な戦費は窮乏していた政府財政をさらに圧迫した。政府は1881年に創設した農商務省に内務省の勧業部門を移管し、民業育成をかかげて間接助成方針に転じた。工部省系の鉱山や造船所もふくめて官営事業は縮小され、84年以降、鉄道や電信、郵便などをのぞいて政商などを中心に民間にはらいさげられた。→ 官業払下げ
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