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  • 清 - Wikipedia

    清 (しん)は、 清朝 (しんちょう)ともいい、 1636年 に 満州 において建国され、 1644年 から 1912年 まで 中国 を支配した最後の統一 王朝 。中国の歴史上では、 征服王朝 の一つに数えられる。首都は 盛京 ( 瀋陽 )、後に 北京。

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清 しん
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

中国史上最後の王朝で、中国東北地方からおこった満州族が1616年にたて(ただし1636年までの国名は後金)、辛亥革命によって1912年に滅亡するまでの約300年間、中国を支配した。

II

政治

満州族は、中国東北地方で半農・半牧生活をおくっていたツングース系民族で、12世紀にをたてた女真族を祖とし、自らをマンジュ、すなわち満州とよんでいた。明代には明朝政府の間接統治をうけ、女真族も分裂していたが、16世紀末に、建州女真からヌルハチがでて女真族を統一、1616年には後金国をたて、明が派遣した討伐軍を大破した。ついでヌルハチは遼東平野に進出して25年には瀋陽に遷都した。

ヌルハチのあとをついだホンタイジは、1636年に即位すると、国号を大清にあらため、皇帝権力を強化するために漢人を優遇、八旗など満州族独自の軍制度にくわえて中国式官僚制度をとりいれた。こうして満州人を支配貴族とする清朝の満漢二重体制の基礎ができあがった。次にたった順治帝の時代に、李自成の反乱によって44年に明は滅亡、山海関をまもっていた明の将軍呉三桂は、関をひらいて清軍をむかえいれ、李自成軍をおいはらった。北京に入城した清軍は、南下をつづけて明の復興をめざした諸王をやぶり、次の康熙帝の代に、呉三桂らがおこした三藩の乱を鎮圧、さらに83年に台湾の鄭氏を降伏させ、全中国を統一した。

この康熙帝および雍正帝乾隆帝と3代つづく治世が、清の最盛期だった。彼らはいずれも中国の伝統や文化を尊重して漢人官僚を積極的に登用し、租税の減免、黄河の治水、官吏の綱紀粛正などをおこなって社会を安定させた。しかし乾隆帝の晩年には政治がみだれはじめ、各地で農民一揆(いっき)がおきるようになった。

19世紀にはいると、ヨーロッパ列強による中国進出がはげしさをまし、とくに中国市場への販路拡大をねらうイギリスは、1840年にアヘン戦争をひきおこして南京条約をむすばせ、その結果、上海など5港が開港し、香港はイギリスの植民地となった。さらにアメリカ、フランスも不平等条約をおしつけ、中国の半植民地化がはじまった。自由貿易と国際法に不慣れな清朝は、その後も列強との戦争にひきずりこまれ、56年のアロー戦争、84年の清仏戦争、94年の日清戦争とたてつづけに敗北、そのつど巨額の賠償金を支払わされた。

こうした敗北のつけは民衆にまわされることになり、反清や反列強の民衆運動が活発となっていった。1851~64年の太平天国や同時期の捻軍の反乱、60年から増加した仇教運動などである。いっぽう、清朝内にはヨーロッパの技術をとりいれて富国強兵をめざす動き、いわゆる洋務運動があらわれたが、日清戦争の敗北によっていったん挫折し、また、清朝の支配体制を日本の明治維新にならって立憲君主制にかえようとする変法運動もおきたが、保守派の反撃によって失敗した。日清戦争後はげしくなった列強による中国本土の直接分割の傾向は、義和団運動によりおさまったが、辛丑(しんちゅう)条約によって、清朝の列強への従属はいっそう深まることとなった。

こうした事態に対し、列強の言いなりになる清朝を打倒しなければ中国そのものがほろんでしまうという考えが急速にひろがり、革命運動がもりあがった。清朝政府は国会の開設を約束するなどの対策をうちだしたものの、一時しのぎの域をでず、1911年に辛亥革命が勃発(ぼっぱつ)、翌12年、革命派は孫文を臨時大総統として南京に中華民国の成立を宣言した。清朝最後の皇帝溥儀は退位においこまれ、ここに中国最後の王朝は幕をおろした。

III

社会・経済

清代の社会は、明代と同じく、官僚、地主、富商が支配層を構成した。経済の発展にともなって、農村における貧富の差が大きくなり、多くの農民が土地を失って佃戸、すなわち小作人となったが、それらの土地は官僚や地主のもとにあつまっていった。農村の生活がくるしくなるのに対し、さまざまな産業の発展が土台となって、都市は支配者層や商工業者を中心ににぎわった。

以前は穀倉地帯だった江浙地方では、綿花など手工業の原料となる作物の生産がふえ、かわって湖広地方が米作の中心となった。また工業では、上海付近で明代以来盛んになった綿布生産のほか、景徳鎮の陶磁器生産には数十万もの職人が分業生産にたずさわった。このような生産力の発展は商業を盛んにし、山西商人新安商人らが活躍した。しかし19世紀後半には、欧米列強の進出によって国内産業はおとろえ、半植民地化がすすんだ。

IV

文化

清朝は、被支配民族となった漢人の心をつかむために漢人学者を優遇し、また明と同じく朱子学を正統の官学とさだめた。康熙、雍正、乾隆3代の皇帝はみな大規模な文化事業を主催し、康熙帝の「康熙字典」、康熙・雍正両帝による「古今図書集成」、乾隆帝の「四庫全書」はよく知られている。その一方で、文字の獄や禁書によって清朝批判をきびしくとりしまったため、学問は柔軟性をうしない、考証学が盛んになった。

文学では、元、明にひきつづいて戯曲や小説などの大衆文学が盛んで、戯曲では「長生殿伝奇」「桃花扇伝奇」、小説では「聊斎志異」「紅楼夢」などが知られる。これらは旧中国社会における上流階級の家庭と人物を事細かに描写している。

絵画では明代以来の南画が主流を占め、石濤(せきとう)、八大山人ら明朝遺民による抵抗精神をもつ画風が特徴である。これらの南宗画は、のちに形式化して清朝画院の画家たちが手法としてとりいれるようになった。また、イタリア人宮廷画家カスティリオーネが西洋画の遠近法などを中国にもたらしている。

工芸では陶磁器をはじめとして玉器・ガラス器・文房具など、豪華、精巧なものが盛んにつくられ、今日でも北京、台北の故宮博物院でみることができる。

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