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日本の神祇(じんぎ:天地の神々)信仰にもとづいて神をまつる建物・施設。境内は玉垣などでかこまれ、門に相当する鳥居、参詣(さんけい)者が礼拝するための拝殿があり、その奥の瑞垣(みずがき)でかこまれた聖域内に本殿がある。そのほか、心身をきよめるための手水舎(ちょうずや)、神楽を奏する神楽殿、神宝をおさめる宝殿、神職が執務するための社務所などが付属し、全域を木々でかこんで清浄な雰囲気をたもつようにされている。境内に本社が管轄する小規模な摂社や末社をもうけることも多い。明治の神仏分離以前では、神宮寺を併設する神社も多かった。 本殿は正殿(せいでん)ともよばれる中心部分で、中にはふつう鏡、剣、玉などが神にかわる御霊代(みたましろ:神体)としてまつられている。しかし、奈良県の大神(おおみわ)神社、長野県の諏訪大社上社本宮(かみしゃほんぐう)、埼玉県の金鑽(かなさな)神社などには本殿がなく、背後にある山を御霊代としておがむ拝殿をもうけているだけである。京都の上賀茂(かみかも)神社のように、祭りのときだけ神が来臨するとして、ふだんは本殿が空座になっているところもある。 「社(やしろ)」と「杜(もり)」は音も意味も近い字であり、古代日本では混用されていたように、神社の原初形態は神奈備(かんなび)とよばれる山や森にかこまれた神聖な場所であった。ここに常緑樹でつくった神籬(ひもろぎ)や巨大な自然石の磐座(いわくら)をたて、臨時に神をむかえてまつっていた。この祭りの場所が固定化されると、神の依代(神霊がまねかれてのりうつる物)としての神宝や御霊代をおさめる倉ができたり、祭りのときに忌籠り(いみごもり:潔斎して宿泊すること)をする施設が仮につくられ、これらが本殿や拝殿に発展したと考えられている。先にあげた本殿のない神社は、原初形態により近い神社といえる。 恒常的な神社建築は、飛鳥時代から大和地方で盛んにつくられるようになった壮大な寺院建築に触発されて建造されるようになったと考えられる。その様式は、仏教的要素を意識的に排除した古来の素朴な技法によるものであった。奈良時代以前の古い本殿の様式に、伊勢神宮に代表される神明造、出雲大社に代表される大社造、住吉大社に代表される住吉造がある。そのほか全国にひろく分布する様式に、賀茂神社に代表される流(ながれ)造、春日大社に代表される春日造などがある。 → 神社建築
神社は本来、氏(うじ)などの血縁集団や地縁集団によって構成される共同体の祭りの場である。そこには氏の祖先神や守護神である氏神、もしくは土地の守護神としての産土(うぶすな)神がまつられていた。これが、人々の神観念の変化や国家による統制などの影響によって発展していく。 7世紀後半以降、律令制のもとで神祇官による祭祀(さいし)制度も整備され、伊勢神宮は皇室の祖先神をまつる特別な神社に位置づけられた。神祇令(りょう)の規定では、祈年祭と月次(つきなみ)祭に官人全員があつまり、神祇官から幣帛がわけあたえられることになっている。これが神社を対象とした官社制度へと発展し、平安時代の「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に記載される2861社の式内社が設定される。国家による神社の序列は、神に位階をあたえる神階制度や、霊験あらたかで高名な神を名神(みょうじん)の社格に列するかたちでもおこなわれた。 平安時代、律令制が変質する中で神社の位置付けもかわってくる。賀茂神社がその地理的関係から王城鎮守神として崇敬をうけ、賀茂祭(葵祭ともいう)が朝廷の祭りとして盛大におこなわれるようになる。また、春日祭や平野祭など、天皇の外戚(がいせき:母方の親戚)の氏神祭も朝廷の祭りとされた。平安中期以降、これらの神社へは行幸(ぎょうこう:天皇による参詣)が開始されたり、二十二社という特別な位置付けのもとで朝廷の崇敬があらわされるようになる。平安後期には地方でも国司による神社崇拝が強まり、参拝順序にもとづいて一宮、二宮、三宮という格付けがなされたり、国内の神々を1カ所にまつる総社が国府の近くにたてられたりした。 平安中期には、血縁や地縁の関係がうすい都市化した民衆によって御霊信仰がおこったり、八幡神(→ 八幡信仰)のように霊威ある神が地域をこえてまつられていた。この時点で、神社は共同体の祭りの枠をこえた個人的な祈願をうけいれる宗教施設へと発展していたのである。このころから、固定化した神社から神輿をくりだして町内をねりあるくようになる。 平安末期(院政期)には、熊野詣など遠方への参詣が盛んになった。個人的に崇敬する神社への百度詣や初詣の風習も一般化してくる。参詣者の増加に対応して、神主などの神職が常駐する神社がふえてくる。皇室の祖先神をまつり、天皇以外の祈願がゆるされなかった伊勢神宮でも、民衆の信仰をあつめるようになった。やがて御師(おし)とよばれる下級神職の活動によって地方へも浸透していく。
中世になるとこの傾向は一段と強まり、霊験をもつとされた神はさまざまな形で地方へ勧請(かんじょう:分霊をむかえてまつること)された。現在の神社の3分の2以上が、稲荷(→ 稲荷信仰)、八幡、伊勢(→ 伊勢信仰)、天神(→ 天神信仰)の4系統で占められているのはこのためである。勧請は荘園制の発達にともなっておこなわれ、本所(荘園領主)の神が荘園の鎮守神としてまつられることが多かった。 室町時代になると、惣村の発達により農民が自主的に勧請したり、宮座とよばれる閉鎖的な祭祀組織をつくって祭りを運営するようになる。神社は、村の取り決めをする誓約の場ともなった。一揆の際には、起請文(きしょうもん)をやいて神水にまぜ、それを回し飲みして共同意識を高める、一味神水(いちみしんすい)もおこなわれた。 いっぽう、神社や霊場へ参詣する風習は、御師や先達の活動もてつだって、講として全国的に展開する。講は信仰によって結束された団体で、祈願成就のために地域をこえて霊威ある神社へ参詣することを目的としてさだめられた日に集会をする。数名の代表者をえらんで参詣する代参講と、講の仲間全員が一生に一度の参詣をする総参講とがある。講の維持には、講金の積み立てや田や山の共同所有などがおこなわれた。中世では伊勢講、熊野講などにかぎられたが、近世にはさまざまな講が結成されて隆盛をみる。 民衆による信仰は、神社の神に新しい性格をあたえることにもなった。稲作の信仰を基盤にしていた稲荷が商売繁盛や殖産興業の神とされたり、雷神としておそれられた天神が学問や合格祈願の神とされたのはその代表例である。 鎌倉幕府と室町幕府におかれていた寺社奉行は、神社や寺院の訴訟を幕府にとりつぐためのもので、特定の大社には専任の担当奉行が特設された。これは中世社会における神社の存在の大きさをしめしている。中世では、国家の大掛かりな神社統制はみとめられず、わずかに室町後期から吉田家(→ 吉田兼倶)が神社へ位階や神号をさずけたり、神職への免許状をあたえたりした程度である。
江戸幕府は寺院や神社の支配を強化し、管理支配のために譜代大名を任じた将軍直属の寺社奉行が設置された。1665年(寛文5)には、全国の神社あての法律「諸社禰宜(ねぎ)神主法度」が制定されたが、この中で吉田神道による神職支配も公認されている。吉田家はこれを後ろ盾に神職支配を拡大していった。神祇伯(神祇官の長官)を世襲する白川家も勢力伸張につとめ、江戸中期からは両家が神道界の二大勢力となった。 近世には、吉田神道の影響により権力者を神としてまつることもはじめられる。その先駆けは、1599年(慶長4)に創建された豊臣秀吉をまつる豊国神社である。徳川家康をまつった東照宮(→ 久能山:日光東照宮)は政治的な意味で全国に勧請され、その数は約300社にのぼったといわれる。地方の大名を神としたものに、前田利家をまつる加賀の卯辰(うたつ)八幡(尾山神社)、毛利元就(もとなり)をまつる長州の豊栄(とよさか)神社、島津斉彬(なりあきら)をまつる薩摩の照国(てるくに)神社などがある。
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