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墨の濃淡による効果を生かしてえがく絵。墨の描線だけでえがく白描画とは区別する。中国では「墨は五彩をかねる」といわれ、墨色の変化によるモノトーンの世界で鑑賞者に色彩を想起させようとする。表現技法は用筆法と用墨法に限定され、中国人の尊重する「気韻(きいん)」、つまり生き生きとした気品を表出しようとした。
水墨画家があらわれたのは唐代(618~907)のことで、呉道玄、王維、王墨らは伝統的な着色画以上に水墨画の芸術性を高めた。その後、宋代(960~1279)には夏珪、馬遠があらわれ、構図や山肌の立体感をだす皴法(しゅんぽう)を定形化した。石恪(せきかく)、梁楷は水墨で道釈(どうしゃく)人物画をえがいた。 元代(1279~1368)には牧谿、玉澗らがでて、墨の特徴を生かした印象的な作風の山水画をえがいた。つづく明・清代(1368~1912)へと中国画壇は水墨画を中心として発展する。水墨画は作者の胸中の表現であることが多く、文学性や哲学性が重んじられるので、士大夫や禅僧にこのんでえがかれた。
日本の先駆的な水墨画には正倉院の「麻布(まふ)菩薩像」や「鳥獣戯画」があるが、本格的にえがかれるようになるのは、宋元画の影響をうけた鎌倉時代(1180~1332)後期以降である。中国にわたって絵をまなんだ僧に、可翁(かおう)、黙庵らがいた。 室町時代(1333~1573)には五山を中心とする禅僧の間で水墨画が盛んに鑑賞され、余技としてえがかれた。東福寺の明兆は水墨画を得意とした専門的な画僧である。また、室町将軍家の収蔵目録である「御物御画目録」「君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)」をみると、大量の中国水墨画が舶載されていたことがわかる。 4代将軍・足利義持は自らも水墨画をえがき、彼の周囲では「詩画軸」が流行した。これは水墨画の余白に五山の僧侶が詩を寄せ書きしたもので、如拙の「瓢鮎(ひょうねん)図」などが有名である。 ついで相国寺の周文がでて日本的な室町水墨画を完成させた。その弟子であった雪舟は明にわたって絵をまなび、豊かな空間表現と自己の様式を確立した。また地方の様式として、北陸には曽我派、西国に雲谷(うんこく)派、鎌倉には祥啓(しょうけい)一派、東北に雪村らがでた。 狩野派の祖、狩野正信は室町幕府御用絵師であったが、宋元画にならった平明な画風で障壁画などをえがいた。そのため水墨画は小画面に作者の心象世界をえがくものではなく、大画面に広遠な風景や中国の故事をえがくものへと性格がかわっていった。江戸時代を通じて狩野派は水墨画を重視し、子弟の修業は古画の模写によることが多かった。 桃山時代(1574~99)から江戸時代初期には、長谷川等伯、海北友松らが独自の芸術をつくりあげ、俵屋宗達は「たらしこみ」技法による日本的な水墨画をえがいた。江戸時代中期以降には曽我蕭白、伊藤若冲などが個性的な表現をこころみた。京都の円山応挙らは、濃淡2種の墨を同時にもちいた付立法(つけたてほう)で写実的な水墨花鳥画をえがいた。明治以降も伝統的技法にならった水墨画がえがかれている。
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