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日本固有の格闘技で、「国技」と称せられる。日本の伝統文化のひとつで、神事相撲、相撲節会(すまいのせちえ)、武家相撲から勧進相撲(かんじんずもう)に発展し、興行を目的とする大相撲として今日までつづいている。近年は外国出身力士の増加、大相撲の海外巡業、海外におけるアマチュア相撲の隆盛など、プロ、アマとも国際化がすすんでいる。
相撲の始まりは「古事記」にあるタケミカヅチノカミ(建御雷神)とタケミナカタノカミ(建御名方神)との国譲りの力比べといわれる。「日本書紀」には垂仁天皇の7年に野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が大和で相撲をとり、宿禰が蹶速をふみ殺したとあり、宿禰は相撲の始祖とされている。しかし、これらは神話伝説にすぎない。
五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈願する農耕の儀礼としてはじまった相撲は、8世紀に入って神前に奉納する神事相撲になり、821年(弘仁12年)には相撲節会として宮中の儀式にさだめられた。その後、武士の台頭とともに、公家から武家の相撲へとうつる。江戸時代になると職業化した相撲集団がふえ、京都・大坂・江戸をはじめ、各地で神社や寺の建立・修復の資金をえる名目で勧進相撲がおこなわれた。それがプロとしての大相撲へと発展した。1761年(宝暦11年)10月場所の江戸番付には「勧進大相撲」とあり、そのころ1場所晴天8日の年2場所制が確立、81年からは晴天10日になった。89年(寛政元年)11月、谷風梶之助と小野川喜三郎にはじめて横綱免許があたえられ、横綱土俵入りがゆるされた。ここでいう「横綱」とは、しめ縄(横綱)をつけて土俵入りをすることをゆるされた者という意味で、今のような番付上の最高位をさすものではないが、これが現在の横綱の始まりで、寛政の黄金時代をつくった。谷風の死後、無敵の雷電為右衛門が16年にもわたって番付上の最高位である大関の座を占めた。1833年(天保4年)から両国・回向院が興行場所としてさだまった。
1889年(明治22年)にそれまでの相撲会所が東京大角力協会(おおずもうきょうかい)になり、90年5月、西ノ海嘉治郎(初代)がはじめて番付に「横綱」と明記された。1903年5月場所後、常陸山谷右衛門と梅ヶ谷藤太郎(2代目)が同時に横綱にのぼり、寛政とならぶ黄金時代をむかえた。09年には回向院境内に国技館が完成して相撲人気に拍車がかかり、それとともに個人優勝制度・優勝額の掲揚・東西対抗の優勝制度などがきめられた。大正期は太刀山峰谷右衛門、栃木山守也の両横綱の天下で、ともに優勝9回を記録した。23年(大正12年)5月から11日興行。25年財団法人大日本相撲協会が認可され、27年(昭和2年)東京と大阪の両協会が合併して年4場所になり、大日本大角力協会、日本大角力協会をへて28年5月に大日本相撲協会が確立した。同年1月、日本放送協会(NHK)のラジオ相撲放送開始にともない、仕切時間(幕内10分、十両7分、幕下5分)がもうけられ、31年4月の天覧相撲を機に、土俵の直径が3.94mから4.55mに拡大された。なお現在の仕切制限時間は幕内4分、十両3分、幕下2分である。 1932年1月、改革をとなえる力士たちが大量に脱退して危機をむかえ、土俵はさびれた。それをすくったのが双葉山定次である。36年1月から39年1月にかけて69連勝を記録、5場所連続全勝優勝をとげ、戦争景気とあいまって空前の相撲人気をもたらした。37年5月から13日制、40年1月から15日制となった。
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