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項目構成
その後、空襲、敗戦により大打撃をうけ、興行場所も転々とした大相撲だが、本場所の開催されない年はなく、1947年6月から優勝決定戦制度を実施、11月には、系統別総当たりにして殊勲・敢闘・技能の3賞をもうけた。50年には横綱審議委員会が生まれた。53年から年4場所(1、5、11月東京、3月大阪)になり、5月からテレビ放送開始。54年9月、蔵前国技館完成、55年5月、昭和天皇の本場所観戦と、復興ぶりはいちじるしいものがあった。さらに57年から11月九州場所が、58年から7月名古屋場所がふえて年6場所制になり、日本相撲協会と改称、65年1月から部屋別総当たり制が実施された。土俵は栃錦清隆・若乃花幹士(初代)両横綱の「栃若時代」から、柏戸剛・大鵬幸喜両横綱の「柏鵬時代(はくほうじだい)」へとうつった。大鵬の人気は高く、32回の優勝を記録した。その後、輪島大士が学生相撲出身ではじめて横綱になり、学生からの角界入りが増加した。その輪島に対抗した北の湖敏満や、千代の富士貢という強い横綱が活躍し、千代の富士は31回優勝、53連勝を記録し、89年(平成元年)9月には相撲界初の国民栄誉賞にかがやいている。
「角聖」といわれた常陸山(ひたちやま)がアメリカにわたり、ホワイトハウスで土俵入りを披露したのは1907年(明治40年)。栃木山も引退後にアメリカのハワイで相撲を指導したが、相撲の国際化には時間がかかった。62年(昭和37年)のハワイ公演でようやく本格的な海外巡業が実現した。ハワイからジェシー・クハウルアが来日して高砂部屋(たかさごべや)に入門し、高見山大五郎のしこ名で初土俵をふんだのは64年3月。巨体を利して関脇までのぼり、72年7月には外国人力士として初の幕内優勝をとげた。その後、280kgをこす小錦八十吉が大関になって横綱をうかがい、高見山の東関部屋に入った200cmをこす曙太郎が93年(平成5年)1月場所後に外国人初の横綱へ昇進し、2001年1月に引退するまで11回優勝している。曙につづいて2人目の外国人横綱となった武蔵丸光洋をふくめ、かつて外国人力士はハワイ出身が中心だったが、最近では外国人として3人目、4人目の横綱となった朝青龍明徳、白鵬翔などモンゴル出身の力士がふえている。08年12月末時点では外国人力士が55人、出身国もモンゴルのほか、ロシアや東欧、中央アジア、中華人民共和国(中国)、大韓民国(韓国)、ブラジルなど12カ国にのぼり、相撲も国際化の時代をむかえている。なお、02年2月以来、日本相撲協会は1部屋1人に制限する外国人力士枠をもうけている。 曙や武蔵丸とともに平成の大相撲をささえてきたのが二子山親方(元大関貴ノ花)を父にもつ若乃花勝、貴乃花光司の兄弟横綱だった。しかし2000~01年に若乃花と曙はあいついで引退、さらに03年に貴乃花、武蔵丸も引退してから、3年半にわたって朝青龍の一人横綱時代がつづいた。その後07年5月場所後に白鵬が横綱に昇進、モンゴル人力士2人が土俵をささえることになった。
2007年8月、朝青龍が巡業をやすんで母国でサッカーの試合に出たことから、日本相撲協会によって2場所出場停止の処分をうけた。朝青龍には、以前から横綱としての品格に欠けるとの角界内外からの批判があり、それとからんで外国人力士の増加と、日本の伝統にこだわる相撲界との折り合いが話題になってきたが、その問題がこの事件でよりいっそう浮き彫りにされた。 また同年9月には、時津風部屋の序ノ口力士・時太山(ときたいざん)が、先輩力士たちによる暴行で死亡した事件が明るみに出た。これは、7月名古屋場所を目前にした6月下旬に愛知県犬山市でおきたもので、時津風親方(元小結・双津竜(ふたつりゅう))ら部屋関係者は「ぶつかり稽古(げいこ)中の不慮の事故」と説明していた。しかし、時太山の両親の要望による解剖や兄弟子の証言で、親方の指示による兄弟子のリンチのはてに死亡したものと判明した。10月初め、日本相撲協会は緊急理事会を招集し、時津風親方の解雇処分を決定。それとともに協会理事らは、北の湖理事長の4カ月50%をはじめとする給与自主返上をもうしあわせた。なお暴行に関与した兄弟子たちの処分は、愛知県警察の捜査の結論が出るまで保留とされ、時津風部屋は、部屋の最年長力士、時津海が現役を引退して継承することになった。 日本相撲協会は事件が明らかになった当初、警察の捜査をまって処分を検討する意向をしめしていたが、監督官庁の文部科学省から協会独自の調査をもとめられ、ようやく処分を決定するにいたった。以前からさわがれている八百長問題や、朝青龍問題でも、日本相撲協会の対応のまずさが問題視されてきたが、今回もその当事者能力と責任感の欠如が鮮明になった。なお、2008年2月7日、愛知県警察は元時津風親方と兄弟子3人を傷害致死容疑で逮捕するにいたった(兄弟子3人は2008年12月、名古屋地方裁判所で執行猶予付き有罪判決をうけ、検察側、弁護側ともに控訴せず09年1月に刑が確定)。 2008年8月にはロシア出身の力士、若ノ鵬が大麻入りタバコを所持していたことで警視庁に逮捕され、相撲協会から解雇処分をうけた。さらに9月には日本相撲協会の抜き打ち検査により、ロシア出身の兄弟力士、露鵬と白露山の大麻吸引が発覚。これに対し協会の臨時理事会は2人を解雇するとともに、白露山の親方でもある北の湖理事長の辞任をみとめ(理事は退任せず)、後任に元横綱三重ノ海の武蔵川理事を選出した。 また2009年1月末には、幕内経験もある十両力士の若麒麟(わかきりん)が大麻所持の現行犯で逮捕され、2月初めに日本相撲協会を解雇されるという事態が生じた。日本人力士の薬物汚染に衝撃をうけた協会は、力士、親方、行司、呼び出し、床山ら協会員全員に対する抜き打ちの尿検査実施を決定した。
土俵(どひょう)は俵に土をつめた土俵(つちだわら)で競技場を一定の大きさに区切り、その中で相撲をとるものだが、いつごろできたかはっきりしない。武家相撲が盛んになった鎌倉時代には人方屋(ひとかたや)といって、人間が直径7~9mの輪をつくり、その中で相撲をとった。17世紀後半の相撲絵には四角の土俵がみられ、それがまもなく円形になったが、盛岡藩ではかなり後まで四角土俵をもちいた。勧進相撲が盛んになった享保年間(1716~36年)には観客がみやすいように、地面より高くもりあげた土俵がつくられた。円形土俵により相撲がおもしろくなり、興行中心の競技へと発展した。 土俵の広さは江戸時代から直径13尺(3.94m)で、その外側にも土俵のある二重土俵の時代がつづいた。1931年(昭和6年)4月の天覧相撲を機に、「より攻防のはげしい相撲を」の趣旨から、二重土俵の内側の俵をなくして、直径15尺(4.55m)の一重土俵にあらため、今日にいたっている。第2次世界大戦直後の45年11月場所には進駐軍に、よりおもしろい相撲をみせようと直径を1尺広げたが、力士会の反対により、1場所で元の15尺にもどした。 土俵は土でもった正方形の平面に、20個の小さい俵をまるくしきつめて土にうめ、4分(5cm)を地上に出す。東西南北の真ん中の1俵、計4俵は外側にずらしてあり、それを徳俵という。土俵にたまった雨水をはきだすためにもうけられたが、今はその名残としてとどめられている。 土俵の上には屋根をもうけ、以前は青・赤・白・黒の4本柱でささえていたが、1952年9月から観客の便をはかってとりはらい、つり屋根になって柱は房にかわった。土俵の中央には、70cm間隔で2本の白い仕切線がひかれている。
力士や行司の階級・地位は相撲番付に表示される。上位から順に幕内、十両、幕下、三段目、序二段、序ノ口といい、十両以上を関取とよぶ。2009年(平成21年)1月場所現在、幕内42人、十両28人、幕下120人、三段目200人、序二段238人、序ノ口57人の力士がおり、合計685人をかぞえる。行司についても、立行司(最高位が木村庄之助、次位が式守伊之助)・三役格・幕内格・十両格・幕下以下と階級がある。
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