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1363?~1443? 室町前期から中期の能役者、能作者。父の観阿弥とともに能を大成した。幼名鬼夜叉(おにやしゃ)・藤若、通称三郎、実名元清。世阿弥は40歳以後に名のった芸名世阿弥陀仏の略称である。
父観阿弥は大和猿楽の結崎座(ゆうざきざ:今の観世流)に属し、はやくから一座の花形役者であったらしい。芸名を観世と称し、メロディのうつくしい大和猿楽の小歌節に、当時流行していた曲舞(くせまい:→ 幸若舞)のはずむようなリズムをとりいれ、ものまね主体の猿楽能に新風をふきこんだ(→ 猿楽)。観阿弥の生みだした能は、京洛(きょうらく)でも名声をえて一世を風靡(ふうび)する。 観阿弥が30歳のときに生まれた世阿弥は、こうした進取の気性にとむ父のもとで、幼時から高貴な人々の好みにあうよう英才教育をうけたようである。1375年ごろ、12歳の世阿弥は観阿弥とともに洛東今熊野で能を演じたが、観阿弥の芸とともにその可憐(かれん)な姿は、将軍足利義満の目をひくところとなり、以後義満は観阿弥父子を庇護するようになった。 またその教養は、義満や二条良基をはじめとする当代一流の文化人によってみがかれ、やがて世阿弥はものまね主体で劇的な起伏にとむ観阿弥の作風を脱し、王朝文学などを題材に歌舞中心の雅(みや)びでうつくしい作風の能を確立した。その芸風は晩年の義満や後継将軍義持の好みにあったらしく、世阿弥とならんで将軍の寵愛(ちょうあい)をうけた近江(おうみ)猿楽の名手犬王や、田楽新座の増阿弥といったライバルの芸風の影響をうけながら、さらに洗練されていった。
世阿弥の作として確実視される能には、「高砂」「忠度(ただのり)」「実盛(さねもり)」「井筒」「江口」「檜垣(ひがき)」「砧(きぬた)」「恋重荷(こいのおもに)」「野守(のもり)」など50曲ほどがあり、今日でも重要なレパートリーとしてくりかえし上演されている。 また、役者、作者としてだけでなく、理論家としても傑出しており、観阿弥の教えをしるした「風姿花伝」や、能楽論「至花道(しかどう)」「花鏡(かきょう)」、2男元能(もとよし)が書きとどめた世阿弥の芸談「申楽(さるがく)談儀」など、21種の芸論と少数の書簡がつたえられている。これらは当時の能を知る一級資料であるばかりでなく、文学としての価値も高い。伝書の中にみえる「花」という言葉は、世阿弥の能を解き明かす重要な鍵(かぎ)のひとつであり、能の美しさの基本とは何かをつたえている。
しかし、晩年の世阿弥は不遇であった。一座はことあるごとに弾圧をうけ、後継の長男は客死し、2男は芸をすてて遁世(とんせい)をはかった。さらに70歳をすぎた世阿弥自身にも、将軍義教による佐渡配流の命令がまちうけていた。わずかに小謡(こうたい)曲舞集「金島書」に佐渡での心境をうかがうことができるが、以後世阿弥の消息、没年などをたどることはできない。 → 能の「観阿弥と世阿弥」
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