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1600年(慶長5)美濃国(岐阜県)関ヶ原を主戦場におこなわれた合戦。全国の大名のほとんどが徳川家康のひきいる東軍か石田三成を中心とする西軍にくわわり、各地で戦いをくりひろげたが、9月15日、双方の主力が関ヶ原で激突し、東軍の勝利が決定した。この結果、徳川氏の全国支配が確定的となったため、天下分け目の戦といわれた。
豊臣秀吉の死後、政権は家康を筆頭とする五大老と三成を筆頭とする五奉行で運営されていた。慶長の役による朝鮮半島からの将兵帰還業務が多忙なうちは平穏だったが、やがて分裂。秀吉の側近として全国統治を運営してきた三成ら吏僚派と、秀吉の子飼いとしてそだった加藤清正、福島正則ら派手な戦功をもつ武将派はぬきさしならない対立におちいった。吏僚派らは秀吉死後もこれまでの政策を維持し、大名の領地支配へ介入して権力の集中をはかろうとし、これに対し有力大名の反対の動きが公然化する。家康は武将派や有力大名の支持をあつめ、三成は家康と肩をならべる五大老で武将派の抑えがきく前田利家をたよって、対抗した。 1599年(慶長4)の利家の死はこのバランスをくずし、清正、正則ら7人が三成を襲撃する事件がおきた。三成は難をのがれたが、家康の仲介で居城へひきこもる結果になった。この機に家康は秀吉が晩年をすごした伏見城本丸にはいり、ほかの五大老を次々と帰国させると大坂城西の丸へうつり、五大老の権限をひとりでふるった。この間、会津(福島県)に帰国した五大老のひとり上杉景勝は城の修築や築造、領内の道路網の修理などをしたが、これは戦争準備ともうわさされた。1600年4月、家康は景勝に弁明のため上洛するよううながし、一方で諸大名に会津攻めの動員をかけた。景勝が上洛をことわると諸大名をひきいて会津へむかい、7月初頭、江戸城に到着、諸将を集結させた。7月24日家康は三成の挙兵を、下野(しもつけ)国小山(おやま:栃木県)できくことになる。家康の会津遠征は、三成をつぶすためわざとその挙兵をさそったものともいわれる。逆に景勝の行為も三成と謀議したものという見方がある。
一方、三成は浅野長政をのぞく4人の奉行で協議、1600年7月17日に五大老の毛利輝元を盟主にすえて、これまでの家康の行為を非難する檄(げき)文を発し挙兵した。西軍は、家康が守将をのこした伏見城を激戦のすえに攻略して伊勢へ侵攻した。また東軍の細川忠興の父幽斎がまもる丹後国田辺城や京極氏の居城である近江国大津城を攻撃、畿内をほぼ勢力下において東軍の反攻を阻止するため美濃・尾張へ進出した。小山の家康は徳川配下の兵力をわずかにのこし、味方の伊達政宗ら東北勢に上杉氏をまかせ、諸大名中心の主力を東海道沿いに反転させた。子の秀忠や譜代を中心とした軍勢は中山道沿いに西へむかった。
1600年8月、東海道をすすんだ東軍は、西軍の防衛ラインである木曽川を突破して岐阜城をおとし、9月13日、家康と合流した。その兵力は約10万。これに対し美濃大垣城を前線基地としていた西軍主力は、守兵7500をのこして関ヶ原に兵をすすめ、中山道と北国(ほっこく)路をおさえる盆地西端に布陣した。毛利勢などは盆地の入り口をおさえる南宮(なんぐう)山についた。総計で約8万余。九州では黒田如水(孝高)、長政親子の活躍で西軍が不利な情勢にあり、東北の上杉勢は伊達政宗、最上義光(よしあき)との合戦で関東に進出できなかった。しかし、真田勢が信濃国上田で中山道の秀忠軍をくいとめ、北陸方面では東軍の前田利長が畿内進出ができないでおり、西軍にとって万全の配置であった。東軍は大垣城と毛利勢らに対し2万でそなえ、関ヶ原の盆地内へすすんだ。 9月15日午前8時ごろ、東軍の福島正則隊の側から家康配下の井伊直政隊が西軍の宇喜多秀家隊へせめかけたのをきっかけに戦闘がはじまり、全軍に波及。西軍と東軍は一進一退をくりかえしたが、昼すぎに松尾山にいた小早川秀秋の大軍が東軍へねがえって西軍を攻撃し、山麓の諸将も同調して午後2時すぎには東軍の勝利がきまった。南宮山にいた毛利氏らの大軍は一度もたたかわずに戦場から兵をひいた。
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