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Windows Live® の検索結果 平安中期の藤原氏の摂政・関白による政治の形態。天皇の政務を補佐した。一般的には、摂政と関白の両職がつねにおかれるようになった冷泉(れいぜい)天皇の10世紀後半から、後三条天皇の即位する11世紀後半までの約1世紀間の政治形態をさす。 摂政や関白の称は、藤原良房が清和天皇の摂政となった9世紀半ば以降、すでに存在した。しかし、10世紀前半には醍醐天皇や村上天皇が摂政・関白をおかず、天皇親政がおこなわれた(延喜・天暦の治)。その意味では冷泉天皇即位後の967年(康保4)、藤原実頼の関白就任以降が摂関政治体制の始まりといえよう。2年後の安和の変による他氏排斥を最後に、藤原氏の権力集中が完成し、これ以降、天皇との外戚関係を軸にした摂関家による政治機構が本格化する。 実頼ののち、兼家とその子の道隆・道兼・道長の時代は、後世「三道時代」ともいわれ、王朝の文化が花ひらいた時期でもあった。しかし、道長の子頼通・教通の時代になると、摂関の職にあってもその女子に皇子が誕生せず、外戚関係をきずくことができなかった。そのため、1068年(治暦4)に外戚関係のない後三条天皇が即位すると、摂関の権勢は衰退にむかい、院政時代へうつっていく(→ 院政)。 こうして政治形態としての摂関政治は平安後期にはおとろえるが、摂政・関白の職を独占し、世襲する家柄としての摂関家は、外戚の地位に関係なく存続した。院政時代に皇室との血縁関係をもち摂関家に対抗しうる家柄も登場したが、摂関政治は再現されなかった。 摂関政治は基本的に律令制のもとでの貴族政治の拡大であり、従来の行政機構以上に新しい組織をつくりだすにはいたらなかった。
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