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Windows Live® の検索結果 ?~626 飛鳥時代の豪族。蘇我稲目(いなめ)の子で、蝦夷の父。敏達朝(びだつちょう)から推古朝まで4代の朝廷で大臣をつとめ、島大臣ともよばれた。572年(敏達元)に大臣となり、在職は亡くなるまで54年間にもわたった。 574年、白猪屯倉(しらいのみやけ:岡山県真庭市)で戸籍作成にたずさわるなど、蘇我氏の家職である朝廷の財務官を継承している。仏教の受容には熱心で、584年には百済からきた石仏を新築の仏殿におさめ、高句麗僧の恵便(えべん)について善信尼(ぜんしんのあま)など3人を出家させた。 翌585年、大野丘(おおののおか)の北に塔をたてて仏舎利(→ 舎利)をおさめたが、たまたま疫病が流行したため、かねてから対立していた大連の物部守屋らにおそわれ、堂塔をやかれ仏像もすてられた。敏達天皇がなくなったあと、守屋と馬子の対立は深まり、用明天皇死後の皇位継承ではついに軍事衝突となった。穴穂部皇子(あなほべのおうじ)をたてようとした守屋に対して、馬子は敏達天皇の皇后だった額田部皇女(推古天皇)をかつぎ、大軍をひきいて穴穂部皇子・守屋をほろぼした。あとをついだ崇峻天皇は592年(崇峻5)、専制を強める馬子と対立して暗殺され、その後に額田部皇女が推古天皇として即位し、聖徳太子(厩戸皇子)が摂政となった。 推古天皇は馬子の姪(めい)にあたり、聖徳太子は娘の夫で義理の子にあたる。そうした関係のためか、推古朝におこなわれた仏教興隆政策・冠位十二階・十七条憲法・遣隋使派遣など一連の施策に対して、争いはおきなかった。しかし、これらにしたがっていたわけでもなく、政府高官は冠位十二階の授与の対象からはずして特別扱いとさせている。皇室の権威を高めることにつながる「天皇記」「国記」編纂(へんさん)では、共編者となって記述を抑制・遅延させたらしい。623年(推古31)には高句麗と手をむすんで新羅をうつなど、太子の遣隋使外交との違いもみせている。仏教への崇敬はかわることなく、592年以来、氏寺の飛鳥寺(法興寺)の建立につくした。 墓は桃原墓といわれ、巨石で有名な奈良県明日香村島庄(しまのしょう)の石舞台古墳と推定されている。石舞台古墳の西にある島庄遺跡では、馬子の邸宅跡らしい建物跡もみつかっている。この建物跡は古墳から約200m西にあり、北側には庭園跡もみつかっている。
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