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7世紀半ばにおこなわれた一連の中央集権的な国政改革。国内では6世紀末以降、部民制(→ 部民)から公地公民制にうつりはじめていたが、中国の大帝国隋・唐の成立にも刺激された。とくに隋・唐が高句麗遠征をはじめ、朝鮮半島での国益と影響力があやうくなると唐の遠征軍に対抗できる軍事力をもつことが急務となった。そのため専制的な中央集権体制をつくって強力な人民支配をおこない、それを基盤に全国から兵士と物資をあつめた。こうした動きは朝鮮半島にもあり、641年には高句麗で泉蓋蘇文がクーデタで権力をうばい、百済・新羅でも政変がおこり、いずれも専制権力が生まれた。
日本の政変は皇位継承問題がきっかけとなり、権力者である蘇我入鹿が古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子をおしたのに対し、皇極女帝の子の中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)らがクーデタを計画。645年(大化元)飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で入鹿をたおした(乙巳の変:いっしのへん)。こののち中大兄皇子は皇太子にとどまって孝徳天皇をたて、保守派の阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)・蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を左右大臣に、中臣鎌子を内臣とする改新政府を樹立。政府は元号を大化とし、唐に対抗して高句麗・百済とむすぶ外交姿勢をしめした。国内では都を難波長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)にうつし、鍾匱(しょうき)の制・男女の法などを制定。政府の直轄領の色彩の強い東国・大和六県(むつあがた)にそれぞれ国司と使者をおくり、土地・人民を掌握し、彼らの武器をとりあげた。
「日本書紀」によると646年1月には大化の改新の詔(みことのり)を発布し、(1)公地公民制を採用し、屯倉・田荘など私地私民制を廃止する、(2)中央・地方の行政区画をさだめ、軍事施設を整備する、(3)戸籍・計帳などで人民を登録し、全国の土地を班田収授法により分配する、(4)全国に統一的な新税制をしくことなどを宣言した。この詔についてはその信頼性をめぐってはげしい論争がある。この間に冠位制度は13階から19階に拡大し、中央集権的な官司制度への移行がはかられた。中大兄皇子は率先して私有していた入部(いりべ)をかえし、豪族の下の部民は国家の公民となった。また、阿倍比羅夫のひきいる水軍が東北地方に派遣され、蝦夷(えみし)の支配強化にあたった。
これら大化の5年間の改革を狭義の大化の改新といい、改新の詔の内容にそった中央集権化策がおこなわれた。663年(天智2)日本は白村江の戦で唐・新羅連合軍に敗北し、当初の目的ははたせなかった。しかし内政改革はその後もすすめられ、670年にははじめての全国的な戸籍の庚午年籍ができ、壬申の乱(672)をへた天武朝・持統朝には班田収授法と人頭税による新税制もはじまる。701年(大宝元)大宝律令の成立で国政改革の成果がまとまることとなり、改新当初にえがいていた律令制による中央集権国家体制はようやく完成された。
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