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豊臣秀吉が全国的に統一基準でおこなった検地。1582年(天正10)の山城での検地が始まりとされるが、織田信長政権下でおこなった80年の播磨(はりま)の検地が事実上の太閤検地の始まりである。天正年間を中心に実施したため天正の石(こく)直しともいう。太閤とは関白を子息にゆずった人のことで、秀吉をさす。秀吉は一定の土地を征服するたびに検地をおこない、統一がすすむとともに全国に拡大した。実施態勢は厳格で、石田三成・浅野長政・増田長盛ら優秀な直属の実務派家臣を検地奉行としておこなった。
中世の荘園制下の土地制度や、土地に対する支配関係は複雑だったが、太閤検地によって整理、一新され、領主と農民の関係は田畑ごとに一領主一農民となった。また近世の石高制という統一的な土地制度の基礎がつくられ、荘園制の時代はおわった。 検地は戦国大名もおこなっており、荘園領主も自分の荘園に検注とよばれる土地調査をしているが、太閤検地は戦国大名検地とちがう画期的なものだった。
戦国大名検地は、多くの場合、差出(さしだし)といって、領主に土地台帳を提出させ、田畑ごとに年貢高を銭(貫高)で表示するのが一般的だった。太閤検地は、その土地を測量するのを原則として田畑の石盛(こくもり:反当たり収穫高)をさだめ、生産条件を考慮したうえで等級を上・中・下・下々にわかち、土地の基準生産高を算定した。これで全国の生産力の実勢も把握できることになった。
また荘園制のもとでは、田畑ひとつひとつに対する権利が幾重にも重なり、長百姓(おとなびゃくしょう)が小百姓から小作料をとる作合(さくあい、つくりあい)とよばれる中間搾取が複雑に存在していた。戦国大名検地ではそれを整理できず、台帳に記載される名請人(なうけにん)の土地に対する権利関係はまちまちだった。太閤検地はこの作合を否定し、直接耕作者を名請人として検地帳に記載し、耕作権を保証する一地一作人にした。
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