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1943年、アメリカ・イギリス・中国(蒋介石)の3カ国首脳がエジプトのカイロで会談し(カイロ会談)、日本への徹底攻撃と日本の植民地を独立または返還させる内容のカイロ宣言を発表。同年にはイタリア南部シチリア島に米英連合軍が上陸、枢軸国側の一角がくずれた。日本軍の敗色も濃厚となった。44年6月、最後の防衛線としていたマリアナ沖海戦で海軍の空母・航空機の大半をうしない、3月からのビルマからインド北東部へ進攻したインパール作戦も失敗して7月に中止、同月のサイパン島の陥落を機に東条内閣は退陣し小磯国昭内閣が成立した。 1944年7月にはアメリカ軍はグアム島に上陸、8月に1万8000人の犠牲をだして日本軍は陥落した。さらに10月のフィリピンのレイテ沖海戦で日本の連合艦隊が壊滅、このとき神風(しんぷう)特別攻撃隊がはじめて出撃した。同月アメリカ軍はついにフィリピンに上陸し、11月からは戦略爆撃機B-29による日本本土空襲が本格化した。 1945年3月の東京大空襲では約10万人が死亡、日本のおもな都市は空襲で焼け野原と化した。3月の硫黄島の戦での玉砕につづいて、4月にはアメリカ軍が沖縄本島に上陸をはじめ、この沖縄戦で日本側は多くの非戦闘員をふくむ約18万8000人の死者をだした。ほぼ3カ月にわたる沖縄戦では、ひめゆり隊の編成で女子生徒らが動員され悲劇的な最期をとげたほか、日米両軍による県民虐殺事件がおこった。ヨーロッパでは5月ついにドイツが降伏、7月にアメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンの3カ国首脳がベルリン郊外のポツダムで会談し、日本の無条件降伏をもとめるポツダム宣言を発表した。小磯内閣をひきついだ鈴木貫太郎内閣は、ソ連を仲介とする和平工作をすすめたが、すでにソ連は対日参戦の密約を2月のヤルタ会談でとりきめていた。 アメリカは日本のポツダム宣言拒否を理由に、1945年8月6日に広島、ついで9日に長崎に原子爆弾を投下、この間の8日にはソ連が日本に宣戦布告して満州(中国東北部)・樺太(サハリン)・千島列島などへの進攻を開始した。原子爆弾による被爆当日の死者は広島で約2万5375人、長崎で約1万3298人、その後の両市の被爆による死者は合計約30万人と推定されている(厚生省:1990)。日本政府と軍首脳部は天皇の裁断によってポツダム宣言の受諾を決定し、14日に連合国側に通告、15日には天皇自身のラジオ放送(玉音放送)を通じて、国民に知らせた。9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で重光葵外相ら日本政府および軍代表が降伏文書に署名し、約4年間にわたる戦争は終了した。日本人の犠牲者は300万人以上、中国の犠牲者は軍人の死傷者が約400万人、民間人の死傷者は1800万人以上と推定されている。
ポツダム宣言にもとづいて日本は連合国軍に占領されることとなり、1945年(昭和20)9月、東京にGHQ(連合国最高司令官総司令部)がおかれた。占領政策をきめる最高機関の極東委員会と、その下部機関である対日理事会がつくられたが、主導権は事実上アメリカがにぎっていた。以後6年8カ月余りにわたって、マッカーサー最高司令官の指令・勧告にもとづく占領政策がおこなわれ、日本の非軍事化と民主化がすすめられた。46年から東京裁判(極東国際軍事裁判)がはじまり、東条英機ら28人が戦争犯罪人として有罪判決をうけた。国家の指導者を国際法廷で処罰したのは、ニュルンベルク裁判とともに世界史上はじめてのことである(→ 戦争犯罪)。
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