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  • 谷文晁 - Wikipedia

    谷文晁 (たに ぶんちょう、 宝暦 13年 9月9日 ( 1763年 10月15日 ) - 天保 11年 12月14日 ( 1841年 1月6日 ))は、 江戸時代 後期の日本の 画家 。 江戸 南画 の大成者であり、その画業は 上方 の 円山応挙 、 狩野探幽 とともに「徳川時代の三大家」に数えられる。

  • 静岡県立美術館【主な収蔵品の作家名:谷 文晁】

    田安家の家臣で漢詩人でもあった谷麓谷(ろこく)の子として、江戸下谷根岸に生まれる。字は文晁、通称文五郎、号は画学斎・写山楼など。 絵を加藤文麗(ぶんれい)、渡辺玄対(げんたい)、鈴木芙蓉について学んだ。

  • 平常展 谷文晁と渡辺崋山

    谷 文晁 寛政10年(1798) 日本名山図会 (にほんめいざんずえ) 谷 文晁 江戸時代後期 写山楼印譜 (しゃざんろういんぷ) 大正7年(1918) 芸苑叢書一期 (げいえんそうしょいっき) 文晁画譜 (ぶんちょうがふ) 谷 文晁

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谷文晁

谷文晁 たにぶんちょう
百科事典項目

1763~1840 江戸後期の画家。名は正安。文晁は字(あざな)であり、号でもある。ほかに写山楼、画学斎などの号をもつ。父麓谷(ろっこく)は田安家の家臣で、詩人・漢学者としても知られていた。

江戸下谷根岸に生まれ、狩野派の加藤文麗や南蘋(なんぴん)派の渡辺玄対に絵をまなんだのち、1788年(天明8)その才によって田安家の奥詰(おくづめ)となった。92年(寛政4)松平定信にみとめられ、翌年海岸視察に随行して、洋風画法をとりいれた「公余探勝図」を制作。96年からは「集古十種(じっしゅ)」の編集にも参加して、古宝物の模写をおこなった。

関東文人画界の重鎮として、狩野派をはじめ、南宗画、北宗画、西洋画などさまざまな画法に精通し、書画会には多くの文人墨客(ぼっかく)があつまった。代表作には「彦山真景図」のような山水画の大作のほか、「木村蒹葭堂(けんかどう)像」などの個性的な肖像画や、花鳥画がある。「本朝画纂(がさん)」「日本名山図会」などの著作もあり、立原杏所(きょうしょ)、渡辺崋山(かざん)らのすぐれた門人を輩出した。

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