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茶の湯は、亭主と客がよりあっておこなう茶会(→ 茶事)を中心として、茶の湯独特の道具とその飾り方、主客の点前(てまえ)と作法、茶会の場としての茶室などを総合し、独自の演出と理念が追究される生活文化とみることができる。
日本では家庭でも会社でも、たずねてきた人に、まずお茶を出す。お客をあたたかくむかえることは、一杯のお茶からはじまるといってよい。この一杯のお茶の効果を最大限に生かすように、さまざまな美的要素をそそぎこみ、日本のもてなしの文化として体系化したのが茶の湯である。 茶の湯にはさまざまな作法や道具の約束、行動の型がきまっていて、たいへん儀礼的にみえるけれど、それは目的へ到達するための手段なのである。その中に身をおいてみると、自然に五感のすべてがじゅうぶんに活動し、心身ともに、こころよくなるようにはこばれていく。茶の湯での五感の楽しみとは、視覚をたのしませる道具の美術工芸、手に感じる茶碗(ちゃわん)のぬくもりや唇に感じるやわらかさといった触覚、料理や茶の味覚のたのしさ、嗅覚(きゅうかく)は茶室にたちのぼる香のかおり、聴覚をみたす水をくみあげる音や銅鑼(どら)のやわらかな響き、さらに道具やその取り合わせにこめられた亭主の心を読み解く知的な楽しみもつけくわわる。このように五感を総動員して、茶の湯の集大成である茶会はすすめられる。 茶の湯のもてなしは、ただ亭主が客をたのしませることだけを目的とするのではなく、亭主自身も同じように客からたのしませてもらうことが大切である。亭主と客がたがいにもてなしあうことで、つまり両者の共同作業によって茶会がすすむところに茶の湯の楽しみがある。
8世紀には中国で喫茶の習慣が広がり、その影響下に日本へも奈良時代には茶が伝播(でんぱ)していたと思われるが、確実な史料にはじめてあらわれるのは815年(弘仁6)、僧永忠が嵯峨天皇に茶を献じた「日本後紀」の記事である。しかし、当時の茶は団茶(蒸した茶葉をかためたもの)風のもので日本人の嗜好(しこう)にあわず、また中国文化の影響がおとろえるのと同時に、喫茶の習慣はほとんどうしなわれた。 12世紀末にいたり、禅僧・栄西が中国より抹茶の製造法と飲み方をつたえ、また「喫茶養生記」をあらわして茶の薬用効果を宣伝したので、武士・僧侶(そうりょ)社会に、しだいに喫茶の風習が定着した。さらに13世紀後半には、京都の高尾や宇治の茶園をはじめ、西大寺などの各寺院に付属の茶園などが開かれ、喫茶習慣が普及し、薬用飲料としてばかりではなく嗜好飲料(しこういんりょう)として支持をえるにいたった。 14世紀に入ると茶に対する嗜好は深まり、各地の茶の味をのみわける飲茶勝負などの茶の遊戯化がはじまり、やがて金品などをかける闘茶として規則もいろいろ工夫され流行をみた。もちいられる道具も中国から舶載された工芸品が登場し、また座敷飾りもすこぶる贅沢(ぜいたく)な室礼(しつらい:座敷空間の飾りつけ)があらわれた。 15世紀初期の作と思われる「喫茶往来」の中に、このような茶寄合をさして「茶会」という言葉がはじめてもちいられた。貴族化した室町幕府の武家文化の中にも唐物中心の室礼が発達した。将軍家の室礼をつかさどったのは能阿弥などの同朋衆で、彼らの室礼や茶の心得が「君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)」にまとめられた。
中世後期における都市の発達は町衆とよばれる富裕な都市住民を誕生させ、彼らは実力によって上層武士が所持していた名物(めいぶつ:由緒あるすぐれた茶道具)を買収するとともに、禅宗や連歌の影響のもとに従来になかった粗相(簡素)の美を表現する器物を新たに選択し、侘茶(わびちゃ)とのちによばれる新しい茶の湯を創造した。 村田珠光は侘茶の祖とされ、唐物と和物の調和をもとめ、「不足の美」を説き、精神的充足を追究した。その嗣子(しし)である村田宗珠、さらに十四屋宗悟(じゅうしやそうご)、宗陳らにひきつがれた侘茶は、堺の武野紹鴎によって大きな展開をとげた。紹鴎は貴族文化・禅宗文化を総合し、名物の世界を背景にしながら、一方で名物を否定し日常雑器を茶の湯にもちいるなど、わび(侘び)の理念と表現を具体的にしめした。 紹鴎の弟子の千利休はこうした侘茶の表現を、器物ばかりでなく、茶会の組み立て、懐石、点前作法、茶室露地など茶の湯の全体系につらぬき、さらにそれまでの見立てによって器物をえらんできたのに対し、楽茶碗(→ 楽焼)、竹花入などに新しい造形も指導し、ここに侘茶は大成された。 戦国時代の大商業都市である堺の経済力を背景に紹鴎が活躍し、津田宗及(そうぎゅう)、今井宗久などの豪商は利休とともに天下人の茶頭(さどう)として政治に深くかかわった。また、織田信長や豊臣秀吉の天下人をはじめとする戦国武将の強い茶の湯への渇望によって、1585年(天正13)の禁裏茶会、87年の北野大茶湯と、茶の湯は全盛期をむかえるが、91年利休が秀吉によって切腹させられると、しだいに変質してゆく。 利休の茶は世間の常識をやぶる創造性にとみ、下剋上の時代にふさわしい美意識につらぬかれていた。しかし天下人によって中央集権的な安定した政治秩序がもとめられてくると、茶の湯の上でも伝統主義へと回帰がすすみ、利休やその弟子の古田織部のような、既成の美を次々と破壊するような茶の湯は否定された。
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