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項目構成
寛永文化といわれる17世紀初期にはよりおだやかで安定した優美な美しさを主張する小堀遠州や金森宗和の「きれい数寄」(「きれいさび」ともいう)がもてはやされた。江戸中期には武家茶道は片桐石州の流が主となり、千家は利休の孫の千宗旦とその子供たちによって表千家、裏千家、武者小路千家の三千家が成立し、その茶風は武家、町人の間に広がり、また宗旦の弟子山田宗偏、杉木普斎、藤村庸軒らによって地方に茶の湯が広まった。 またこの時代になると、茶の湯の伝書が木板で印刷出版されるようになる。このような茶道人口の増加によって、遊びとしての茶の湯をまなぶ人々がふえ、これに茶をおしえる職業的な茶人が登場し、ここに茶の湯の遊芸化とその上に家元制度ができあがってきた。遊芸としての茶の湯は、それまでの茶会中心の茶の湯ではなく、稽古(けいこ)そのものが茶の湯の目標となることで、習い事、芸事として地位を確立した。 18世紀中期~後期には、如心斎千宗左、一灯千宗室、川上不白などが協力して考案した七事式(しちじしき)といわれる集団での稽古法が人気を博したのも、遊芸化にともなう茶道人口の増加に対応するものといえよう。しかしその一方で、このような遊芸化に対する批判も登場する。名物道具の収集と研究をとおして点前中心の茶の湯を批判した松平不昧(ふまい。松平治郷)、茶事の中に精神性を追求した井伊直弼、点前の体系化によって修行性を強調した玄々斎(げんげんさい)千宗室など、幕末の茶人たちの遊芸化批判は、近代の茶の湯の出発を意味した。 明治維新による幕藩体制の崩壊は、有力大名の茶頭として扶持(ふち)をうけていた茶道家元を逼塞(ひっそく)せしめることになり、不要不急の遊芸たる茶の湯に対する世間の冷眼視もあって、茶の湯は急速に衰退し、茶道具の値段は下落した。
やがて1890年代前半(明治20年代後半)にいたると、新興の政財界人の中で美術品に興味をもち、趣味として茶の湯をたのしむ数寄者(すきしゃ)とよばれる人々が登場し、ふたたび茶の湯は人気をあつめはじめた。数寄者の茶の湯は東山名物、中興名物、雲州名物(うんしゅうめいぶつ)などの名物茶器の鑑賞に興味があり、さらに従来の茶道具の枠をこえた仏教美術品などの高度の美術鑑賞を茶にとりこみ、茶の湯の中に芸術的要素を強めた。その結果、原三渓による造庭と古建築の保護、あるいは根津青山(根津嘉一郎)による根津美術館の創設など、文化遺産の継承に彼らは大きな役割をはたしたといえる。 昭和初期より、茶の湯界の様相は大きく変化した。明治期の衰退を挽回(ばんかい)すべく、茶道家元が女性の教養としての茶の定着につとめた成果があらわれ、女子教育の普及もあいまって、膨大な女性茶人が誕生し、それによって家元制は復活した。昭和前期より茶の湯は女性文化となったのである。第2次世界大戦後、日本の復興そして高度成長期を通じて茶道人口は増加しつづけ、空前の茶道ブームをひきおこして今日にいたっている。
茶の湯は日本の文化全体の中では、けっして大きな存在とはいえない。しかし茶の湯には日本の文化のさまざまな要素が入っているし、またその逆に、さまざまな要素に影響をあたえているので、茶の湯をとおして日本文化をみることも、なかなか興味深いことである。そこで茶の湯がどのような要素からできているか、そしてそれぞれがどのような影響をあたえたかをみていく。
茶の湯をみて感心するのは、その動作のうつくしさである。たとえば畳の上をあるくにも、すべるように自然に足がはこばれるが、注意深くみると、けっして畳の縁をふんでいないことに気づく。またすぐれた茶人のすわっているところをみると、肩や腕から力をぬき、背筋はまっすぐにのばし、体全体の重心が、へその下あたりにあつまって、どっしりと安定した姿勢をつくりだしている。あるいは客の前に茶碗がはこばれると、客は次の客に、お先にいただきますと会釈をし、正面をむいて、はこばれた茶碗を手にとると、正面からのむのを遠慮して少し茶碗をまわして、脇を手前にしてのみはじめる。こうした動作を通じて知らず知らず隣の客との間にしたしみが生まれ、客と亭主の間に言葉にならない会話が生まれているのである。 こうした茶の湯の動作は、たんに無駄がないというだけではなく、みる人をあきさせない優美さを演出する、数百年かけて洗練された末に生まれた動作であるといえる。20世紀になって茶の湯をまなぶ女性が急激にふえたのは、従来の武士や町人の作法よりも近代の女性にふさわしい作法を、茶の湯がすでにつくりあげていたからである。女性にとってだけではなく、茶の湯のふるまい方は、日本人のマナーとして影響をあたえてきたのである。 また、茶の湯でもちいられる道具は日本の美術工芸の発達に大きな影響をあたえた。たとえば、日本で歴史的、美術的に評価される書や絵画の多くは、茶室の掛物として鑑賞されてきた。また、陶磁器、竹工、金工(→ 金属工芸)、表具(→ 表具師)、染織、さらには漆器なども同様に、茶人によって高い価値を見出されてきた。日本の美術工芸の粋(すい)は、茶の湯にすべて内包されるといわれてきたのは真実である。同様に、茶室や露地の繊細な作りは、日本の造園(→ 日本庭園)や建築に大きな影響をあたえた。 茶の湯には、さらに2つの重要な要素がつけくわえられる。料理と菓子である。中世の宴会料理は食べきれない大量の料理でうめられ、その料理は当然、つめたく、かたくてまずかった。これを改革したのが茶人で、茶の湯の料理のことを懐石という。できたての料理がすぐに食膳(しょくぜん)にはこばれ、素材の風味や妙味をそこなうことなく食べられる。少しもあますことなく食べおえられる量が工夫され、1つ食べおわると次の料理がはこばれるコースができた(この時代のヨーロッパでは、順番にしたがってサービスする料理のコースはまだできていない)。この懐石はことに現代の日本料理に大きな影響をあたえ、今日でも日本の最高の料理は懐石とされている。 締めくくりの要素としては、わび(侘び)の思想である。それは、豪華で完全な美ではなく、不足の美あるいは余白のうつくしさというべきものへの志向であり、精神的な充足をもとめるものであった。茶の湯の完成に大きくかかわったわびの思想は、物質文化のゆきづまった現代にこそ見なおされるべきであろう。
次に、茶の湯の見方の中にある総合的な視点について注意をうながしたい。近代の西洋で発達した学問は日本にも大きな影響をあたえたが、その根本には分類と定義がいつももとめられる。その結果、美術研究では陶器、磁器、漆工、金工、ガラス等々が別々の研究となっている。しかし水指(みずさし)という茶の道具ひとつとっても、すべての材質がつかわれるから、水指の研究にはその全体の知識が必要なのである。つまり水指の材料や製造法からのみ考えるのではなく、水指をつかう立場、あるいは環境として生かす立場からの見方も同様にもとめられる。茶の湯はこうした総合的な学問研究の理想的な目標なのである。 茶の湯の道具はどのような場面でどのようにつかったらよいか、あるいはどのようにうつくしくふるまったらよいか。これらの体系が茶の湯の型であるが、これを簡単に身につけることはむずかしい。これを身につけるシステムが稽古である。数百年かけてつくりあげてきた茶の湯の型はたんなるマニュアルではない。その多くが文字で表現できない感覚的なもので、身体で会得する知識ともいうべきものだからである。動作の稽古は順番と型をおぼえれば完成するのではなく、動作の稽古を通して体が生まれ、体と動きにふさわしい心が生まれることが期待される。それは禅の修行に少し似ている。 最後に誤解されがちな家元制度についてふれておく。家元はこうした型の伝承者として利休以来の型をうけつぎ、その家元を中心に弟子たちの社会ができている。これを家元制度という。身体化された知識が生きたかたちで継承されるためには、家元の個性や能力も大切だが、それをこえた家――それは茶の湯に関するハードウェアとソフトウェアのすべての集約点といえる――の継承が必要となる。このようにのべると、家元は没個性で、制度は固定的、因習的と思われるが、そうではない。型が生き生きとつたえられるためには、時代や支持者の要請にこたえ、家元の個性と能力が要求され、その結果、茶の湯は少しずつ変化してきた。これからも変化していくであろう。しかしそれはことさら新しい型をもとめるのではなく、もっとも伝統的な型に新しい時代の精神をそそぎこむことで、かわっていくのであろう。言葉は古い言葉をもちい、心は新しい心をもちいる、と著名な歌人がかたっているが、それを可能にする茶の湯の制度が家元制度なのである。
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