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パレスティナの地に1948年、ユダヤ人の国家イスラエルが建国され、それまでの住民だったパレスティナ人たちは国外へ追放され、大量難民となった。このユダヤ人の国家からふたたびアラブの地を解放する目的ではじまったのが中東戦争で、中東紛争、アラブ・イスラエル紛争ともよばれる。大規模な戦闘は、第1次から第4次の4回おこなわれた。 パレスティナを「約束の地」として、ユダヤ人の国家をつくろうというシオニズム運動は、19世紀後半にはじまった。第1次世界大戦中イギリスは、オスマン帝国の支配下にあったパレスティナを獲得するためアラブ人の支援をうけ、戦後にアラブ国家の樹立を約束したが、一方では、ユダヤ人に対し「民族的郷土の設立」をみとめた(1917、バルフォア宣言)。 大戦後の1922年、国際連盟はパレスティナのイギリス委任統治をみとめたが、そのもとでユダヤ人対アラブの対立がおき、ナチス・ドイツ(→ ナチズム)によって大量の難民となったユダヤ人のパレスティナ入植の増加がそれに拍車をかけることになった。第2次世界大戦をたたかいぬいたイギリスには、大戦後事態を収拾できる力はもはやなく、問題解決は国連にゆだねられた。 1947年、国連はパレスティナ分割決議をおこない、ユダヤ人はこれをうけいれたが、アラブ側はみとめず、大規模な戦闘はさけられない状況となっていった。
イギリスの委任統治が正式に終了する1948年5月15日の8時間前、ベン・グリオンはイスラエル国の独立を宣言、アラブ側は軍事的解決以外にないと戦争に突入した。こうしてアラブ側はパレスティナ戦争、イスラエルはイスラエル独立戦争とよぶ戦闘がはじまり、アラブ側はエジプト、シリア、ヨルダン、イラクを味方につけ、アメリカの支援をうけたイスラエルとたたかった。シリア軍はパレスティナ北部を、イラク軍はトルカラムを占領してハイファにのびた原油パイプラインを切断、ヨルダン軍はヨルダン川西岸地区を占領するとともにエルサレムを防衛した。 緒戦は数にまさるアラブ側が優勢だったが、アラブ諸国の間には領土的野心などの対立と相互不信があり、戦局は武器にすぐれ統制のとれたイスラエル軍が優位にたつようになっていった。そして、停戦と戦闘をくりかえす中、1948年11月に国連安保理の休戦決議が発効、翌年イスラエルはレバノン(3月)、ヨルダン(4月)、シリア(7月)と休戦協定を締結した。その結果、イスラエルは国連分割決議をうわまわるパレスティナ領を獲得、エジプトはガザ地区を支配し、ヨルダンはヨルダン川西岸地区を併合した。そして、イスラエル支配地域の大幅な拡大にともない大量のパレスティナ難民が発生した。
エジプトのナーセル大統領は、1956年7月に、スエズ運河の国有化宣言をおこなった。これを自国の権益への挑戦とうけとめたイギリスとフランスは、イスラエルと共同して10月からシナイ半島のエジプト軍および、スエズ運河地区を陸・海・空から攻撃、11月にはブールサイドなどを占領した。11月1日に国連緊急総会が開催され、翌日、停戦決議が採択された。イギリス、フランス、イスラエルの武力行使は世界各国の非難をあび、一般にはスエズ戦争あるいはスエズ動乱とよばれ、イスラエルはシナイ作戦とよぶ戦闘は、3国の撤兵でおわった。イスラエルにはティラン海峡通過が保障された。
1966年にシリアで誕生したバース党左派政権は、パレスティナ・ゲリラを支援し、イスラエルとの緊張が高まった。アラブ世界の盟主たらんとするナーセルは、67年5月にティラン海峡を封鎖するとともにヨルダンと軍事同盟をむすび、イスラエルとの対決姿勢をうちだした。 これに対してイスラエルは1967年6月5日早朝、エジプト、シリア、ヨルダンの空軍基地を電撃的に攻撃、壊滅的な打撃をあたえた。翌6日、国連安保理が停戦決議を採択、イスラエル、ヨルダン、エジプト、シリア各国は次々に停戦を受諾した。この戦争は、イスラエルの圧倒的勝利でわずか6日でおわったため、イスラエルでは六日戦争とよんでいる(アラブ側は六月戦争とよぶ)。この戦争によってイスラエルは、東エルサレムをふくむヨルダン川西岸地区、ガザ、ゴラン高原、シナイ半島を占領してしまった。アラブ側のショックは大きく、以後アラブ民族主義は衰退し、対イスラエルの戦いは、アラブ諸国から、徐々にPLO(パレスティナ解放機構)にかわっていった。
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