検索
エンカルタ内で検索 : 土田麦僊

Windows Live® の検索結果

  • 足立美術館:ADACHI MUSEUM OF ART

    麦僊が好んだ草花はこの黄蜀葵をはじめ、芥子、芍薬、朝顔、蓮、菊など清らかで香気を含んだものが多くあります。 ... 土田麦僊:明治20年(1887)~昭和11年(1936) 新潟県佐渡に生まれる。16歳の時、僧侶になるため京都に出るが絵の世界に入り、翌年 ...

  • EPSON~美の巨人たち~

    京都大原の情景を描いた土田麦僊(ばくせん)・作『大原女(おはらめ)』。 大原女とは、 大原の里から農作物を売りに行く娘。 木陰で休む農家の娘たち、周りにヤマブキやタンポポの黄色い花が描かれ、

  • 土田麦僊 - Wikipedia

    土田麦僊 (つちだ ばくせん、 1887年 ( 明治 20年) 2月9日 - 1936年 ( 昭和 11年) 6月10日 )は 大正 ~昭和期の 日本画家 である。 明治20年(1887年)、新潟県 佐渡市 ( 佐渡島 旧新穂村)の農家の三男として生まれる。本名は金二。

すべての検索結果 :
Windows Live® の検索結果

土田麦僊

土田麦僊 つちだばくせん
百科事典項目

1887~1936 日本画家。本名金二。新潟県佐渡に生まれ、1903年(明治36)京都にでて、鈴木松年、竹内栖鳳に師事した。10年、京都の青年画家たちとともに、黒猫会(シャ・ノワール)を結成、翌年仮面会(ル・マスク)と改組して前衛美術運動をめざした。

また、文展にも出品していたが、その前衛性のために十分評価されず、1918年(大正7)には小野竹喬村上華岳など、同世代の京都の画家たちとともに国画創作協会を結成した。同会は、28年(昭和3)に解散するまで、日本画界の異色の団体として光彩をはなち、麦僊は「湯女(ゆな)」(1918)、「舞妓林泉(ぶぎりんせん)図」(1924)など、ヨーロッパの近代、および古典絵画からまなんだ造形性を日本画の中に生かそうとする意欲作を発表していく。

その後はふたたび官展に復帰し、1930年の第11回帝展に「明粧」を出品、翌年帝国美術院会員となり、その作風も、かつての前衛的傾向から内面的に深化したものにかわっていった。

項目内で検索
項目全体を印刷
項目の URL をメールで送る




© 2009 Microsoft