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一般に天皇陵といえば、宮内庁法によってさだめられた、昭和天皇まで124代の天皇を埋葬した墳墓をいう。ただし、考古学で天皇陵古墳というときは、天皇、皇后、皇子など皇族や外戚の墳墓や、被葬者を確定していない陵墓参考地とよばれる皇族関係者の墳墓などのうちで、古墳とみとめられるものをいう。 天皇陵の形は8世紀以前のものは巨大古墳をふくめて、前方後円墳、円墳、方墳などの高塚が多く、江戸中期以降は石塔、明治期以降は円丘や上円下方丘などに主流がうつった。
天皇や皇族の墳墓は陵墓とよばれ、現在は宮内庁書陵部が管理している。本来は即位した天皇の墓だけを陵といい、そのほかの皇族たちをほうむった場所はすべて墓といったようだが、現在の「皇室典範」では天皇、皇后、太皇太后、皇太后の墳墓を陵とし、その他の皇族の墳墓を墓としている。 これらの陵墓は、近畿地方を中心に北は山形県から南は鹿児島県まで広範囲におよぶ。現在、歴代天皇陵などの陵が合計188基あり、皇族などの墓が552基、ほかに埋葬地でない天皇の分骨所や火葬塚など110も陵墓にふくまれる。また、陵墓参考地とよばれる墓が50基近くある。
初代とされる神武天皇陵は奈良県橿原市のミサンザイ古墳とされているが、「日本書紀」などに陵についての記載があるものの、その後わすれられ、江戸末期にようやくミサンザイ古墳にさだめられた。8代とされる孝元天皇陵も橿原市の中山塚古墳といわれているが、江戸時代の絵図をみると明らかに時代のくだる古墳時代中~後期の横穴式石室(→ 石室)が数基ある。奈良市西北部にある11代とされる垂仁天皇陵は大型前方後円墳で周濠(しゅうごう)の一部が大きく拡張、その中の島は垂仁天皇の忠臣だった田島間守(たじまもり)の墓といわれているが、1879年(明治12年)以前の絵図にこれはみえないから、その後の外堤工事でできたものなのだろう。 26代とされる継体天皇陵を宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳(おおたちゃうすやまこふん)としているが、ここから出土した埴輪の年代は継体天皇の在位時期より古い。しかも、陵の記事がのる「延喜式」は継体天皇陵を島上郡(しまのかみぐん)とするのに、この古墳の場所は島下郡にあたる。考古学者間では島上郡の今城塚古墳(大阪府高槻市)をあてる説が有力である。 天皇陵名と被葬者に、こうした多くの矛盾がみられることから、近年は、たとえば仁徳天皇陵を大山古墳、応神天皇陵を誉田山古墳とよぶように、天皇陵名をさけて地名のついた古墳名をつかうことが多くなった。 宮内庁のさだめる陵に、このような疑問が出るのは、「古事記」や「日本書紀」「延喜式」にのる陵の場所を、江戸後期の国学の隆盛におされた幕府が、政治的にきめたものが多いという背景がある。さらに、幕府は文久年間(1861~64年)にこうした作業とともに大規模な天皇陵改修工事をおこなった。古市古墳群中にある、大阪府羽曳野市の雄略天皇陵は、幕末期の改修で円墳と方墳が濠(ほり)をへだてて無理に前方後円墳に改造されている。現在でも主軸が大きくブレていることは有名。大阪府堺市にあって世界最大級の面積をもつ仁徳天皇陵(大山古墳)は、3重にめぐる濠が特徴的である。しかし、江戸時代の絵図などでは濠は2重で、現在でも後円部の3重目の濠は不自然な形で、隣接してつくられた陪塚(ばいちょう)といわれる複数の小型古墳をとりこんでいることがわかる。3重目は、江戸時代の工事で新設されたものである。
古墳時代までの42代の天皇陵のうち、天皇名と天皇陵名が確実にあうのは天智天皇陵、天武・持統天皇合葬陵の2カ所ぐらいといわれる。しかし陵墓は、宮内庁が皇室の墓所として保管・管理しているため、一般の立ち入りは原則として禁止され、文化財指定もなされていない。そのため、発掘調査などで古墳の年代を分析することができず、古代史研究の大きな障害となってきた。 1991年(平成3年)、橿原市の見瀬丸山古墳の石室内写真が、たまたま一般市民に撮影され公開された。石室入り口が開いていて、子供の遊び場になっていたのである。同古墳は明治初期まで天武・持統合葬陵とされていたが、同陵が明日香村でみつかったため陵墓参考地として後円部上部だけが宮内庁管理となっていた。写真には石室内に時期のことなる2つの石棺がうつっていたため、あらためて被葬者が問題となった。欽明天皇と妃の堅塩媛(きたしひめ)合葬陵とみる考古学者が多いが、このあとすぐに宮内庁は石室入り口をふさいでしまった。 陵墓は皇室神事の対象で、たんなる文化財とはちがう、というのが宮内庁の見解で、御霊(みたま)の安寧(あんねい)と静謐(せいひつ)をまもるために学術調査をみとめないとしてきた。宮内庁は陵墓保全整備事業などにともなって事前発掘調査、測量調査をおこない、保全整備の際に研究者に見学をみとめてきたが、きわめて限定的なものだった。 しかし近年は、学術団体の求めに応じて立ち入り調査をみとめる方向へと方針を転換、2008年1月に奈良市の神功皇后陵(五社神古墳:ごさしこふん)の立ち入り調査を日本考古学協会など16の学会代表にはじめて許可した。宮内庁はひきつづき要望があれば、審査して許可を出すとしているが、全面立ち入りや発掘調査はみとめられていない。
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