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隋につづいて618~907年にわたり中国を支配した王朝。首都は長安(現、陝西省西安市)。副都として東都に洛陽、北都に太原(たいげん)をおいて広大な領土を支配し、東アジア世界の政治・経済・文化の中心になった。唐代の約300年は安史の乱(755~763)を境に、大きく2つにわかれる。前半期は隋からひきついだ諸制度を完成し、内政的にも対外的にも古代帝国としてもっとも安定した時期だった。後期になると様相は転じて、南北朝(439~589)以来の貴族社会、律令体制の崩壊と節度使の台頭による群雄割拠の時代となる。
隋代末の混乱の中で都を占拠した李淵は、煬帝の孫の恭帝を擁立したが、煬帝が死亡すると禅譲(ぜんじょう)をせまって即位、国号を唐とした。これが唐の高祖である。高祖李淵は戦火を平定して国内の統一をすすめ、唐の基礎をつくった。高祖の2男、太宗(李世民)は、中国の統一をなしとげ、唐の最盛期をもたらした。中央集権体制をつくりあげるために、律令格式をさだめ、中央の機関を三省と六部にまとめた。また均田制を実施し、租庸調・雑徭の税制をさだめ、軍事面では兵農一致の府兵制、官吏の任用では科挙を継承した。この太宗の治世は、年号をとって「貞観の治」と称される。 太宗と次の高宗の時代、唐は領土も大きく拡大した。630年にまず北方の東突厥を屈伏させ、吐谷渾(とよくこん)・西突厥なども服させ、さらに640年には高昌国をほろぼして西域の交通の要衝をおさえた。朝鮮半島では、新羅とむすんで百済と高句麗をほろぼした。こうして唐は東は朝鮮半島から西は中央アジア、北は南シベリアから南はインドシナにいたる範囲に勢威をおよぼし、支配地域に6つの都護府をおき、各民族にある程度の自治をあたえる羈縻政策をとった。南方からの貢納国もふえ、インドやアラブ諸国とも交流した。
高宗の皇后武照(ぶしょう)は、高宗の死後、子の中宗・睿宗(えいそう)を廃位してみずから即位し、中国史上ただひとりの女帝となった。死後に贈られる称号(諡:おくりな)が則天大聖皇后だったので、一般に則天武后とよばれている。武后は儒教で理想とされていた古代の周の再現を夢みて国号を周(690~705)とあらためた。いわゆる武周革命である。また、洛陽を神都として事実上の遷都をおこない、仏教を重んじて洛陽のほか、全国諸州に大雲経寺を建立するなど、次々に新政をおこなった。武后によって名門貴族は遠ざけられ、新興地主層が中央官界に進出したことも特筆すべきことであった。 しかし、武后は老いて病気になると、部下に退位させられ、国号も唐にもどされた。そして中宗が復位したが、このときは皇后の韋(い)が政治に介入し、のちに武后とあわせて「武韋の禍」といわれた。 こうした事態を打開しようとクーデタをおこしたのが、玄宗として知られる李隆基(りりゅうき)だった。彼は父の睿宗を即位させて、自らは皇太子となり、712年に帝位をゆずられた。
玄宗が治世にあたった約40年間の前半は、有能な人材を登用して国力の増大につとめ、「開元の治」とたたえられる、華やかな国をきずいた。しかし後半になると政治をおろそかにするようになり、くわえて荘園の発達による均田制の崩壊、また募兵制を導入して府兵制を廃止(749)するなど、唐をささえてきた体制がくずれはじめた。 対外的にも勢いがなくなった唐は、742年に周辺民族の侵入にそなえて辺境10カ所に募兵軍団の司令官として節度使をおいたが、彼らはしだいに独立した地方勢力となって藩鎮ともよばれるようになり、中央政府の命令にしたがわなくなっていった。
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