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  • 唐招提寺

    奈良市。総本山。歴史、伽藍と名宝の紹介、関連リンク。

  • 唐招提寺

    『唐招提寺』 ... 唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。 多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ ...

  • 唐招提寺2010プロジェクト

    tbsでは、創立五十周年を記念し、奈良時代、天平宝字3年(759)に創建された唐招提寺金堂(国宝)の平成大修理を支援するために、2000年より2010年を目途に、「唐招提寺2010プロジェクト」をスタートしています。 ... 国宝 鑑真和上展(静岡県立美術館)開催の ...

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唐招提寺

唐招提寺 とうしょうだいじ
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

奈良市五条町にある律宗の総本山。唐の僧、鑑真の建立。鑑真は東大寺唐禅院を宿所として、日本僧への正式な戒律を伝授したが、これに反対する勢力もあり、758年(天平宝字2)東大寺をはなれて現在の寺地へうつった。ここは、かつての平城京右京五条二坊にあたり、新田部(にいたべ)親王の旧居の地であった。移住当時にあったのは、新田部親王期の校倉(あぜくら:現在の経蔵)くらいだったが、平城宮(へいじょうきゅう)東朝集殿をうつして講堂とし、藤原仲麻呂から食堂(じきどう)の寄進もうけた。

鑑真と後をついだ如宝(にょほう)たちは、鑑真にあたえられた備前国の水田100町と、776年(宝亀7)にもうけられた寺封50戸の収入などをもとに、宝亀年間(770~781)に寄棟(よせむね)造の金堂を建立するなど、しだいに伽藍を整備していく。810年(弘仁元)には五重塔もたてられ、寺観はひととおりととのった。

平安中期以降には仏教指導者たちが俗化し、戒律をまもる風潮がうすれる。それによって寺運もかたむき、法相(ほっそう)宗の興福寺の末寺にもなった。しかし、1203年(建仁3)笠置(かさぎ)寺の貞慶(じょうけい)が当寺に釈迦念仏会をおこし、43年(寛元元)中興の祖といわれる覚盛(かくじょう)も舎利会をおこして戒律の復興につとめた。13世紀後半の証玄も戒壇の創設や造像にはげみ、寺観を復旧した。室町時代の社会混乱でふたたびおとろえたが、江戸前期には徳川綱吉とその生母、桂昌院から財政支援をうけ、戒壇院の再興や諸伽藍の整備、修理がおこなわれた。その後も地震、落雷、失火などにあい、1802年(享和2)には五重塔と鎮守社を焼失している。

II

文化財

現在も鑑真以来の多数の美術品を所蔵する。金堂は、奈良時代末期に鑑真の弟子、如宝によって建立されたとつたえる。本尊の盧舎那仏坐像が脱活乾漆造、薬師如来立像、千手観音立像が木心乾漆造で、奈良後期の作例である。とくに千手観音は現存最大最古、しかも実際に1000本の手をもつことで有名である。ほかに一木造で乾漆併用の梵天帝釈天四天王立像がある。

講堂平城宮(へいじょうきゅう)の朝集殿を移築したもので、奈良時代の宮殿建築の遺構として貴重である。1287年(弘安10)の弥勒仏(みろくぶつ)坐像と平安初期の一木造の二天がまつられている。かつて講堂にあり、今は新宝蔵にうつされたものに、伝薬師如来立像、伝獅子吼菩薩立像、伝衆宝王菩薩立像などの奈良後期の新様の木彫像群がある。豊かな体躯や衣文(えもん)の表現に中国の新しい様式がみられ、鑑真の影響を思わせる。

礼堂には多数の結縁をあつめた清凉寺式釈迦如来立像が安置してある。また、校倉造の経蔵と宝蔵も奈良時代の遺構として知られ、鼓楼は鎌倉時代に再建されたもの。

御影(みえい)堂に安置される脱活乾漆造の鑑真和上(わじょう)座像は、天平肖像彫刻の白眉(はくび)とされる作品。「唐大和上東征伝」によれば、弟子の忍基(にんき)が講堂の棟梁(むなはり)のおれる夢をみて鑑真の死期の近いのをさとり、和上像の制作にとりかかったという。絵画では、鑑真の生涯をえがいた「東征絵伝」(1298)があり、工芸では鎌倉時代の金亀舎利塔が名高い。

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