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奈良市雑司町にある華厳宗総本山。大華厳寺、金光明(こんこうみょう)四天王護国寺、総国分寺などともいう。南都七大寺のひとつで、前身は聖武天皇が皇太子の基王(もといおう)供養のためにたてた金鐘寺(きんしょうじ)。 743年(天平15)聖武天皇の詔(みことのり)によって、華厳経のいう理想の世界を実現するため、盧舎那(るしゃな)大仏の造立(ぞうりゅう)が計画された。工事は翌年、紫香楽宮ではじめられ、745年に都が平城京にもどされると、その東郊の金鐘寺(このころ金光明寺とも)の地で再開、あわせて寺建物の造営も推進される。造営の指揮は造東大寺司がとり、造仏・写経事業などをすすめた。中国に対して東の大寺とする意気込みのもと国家財政もついやし、大勢の知識(信仰上の同志)にも喜捨・就労をよびかけている。 大仏は大量の土砂をもりあげ、8度にわけて鋳造し、749年(天平勝宝元)像高5丈3尺5寸(約16m)の金銅の巨像として完成。大仏殿・回廊をめぐらし、752年に開眼(かいげん)供養会がおこなわれた。その後も東西両塔、講堂、三面僧坊、鐘楼などがつくられ、789年(延暦8)ようやく造東大寺司を廃止。最高の格付けと、寺封5000戸、墾田4000町をもつ巨大な国立寺院として古代社会に君臨した。六宗兼学の修行場でもあり、境内には尊勝院(華厳宗)、東南院(三論・真言宗)、知足院(法相(ほっそう)宗)、戒壇院(律宗)などの研究道場がならびたった。なお、このうちの戒壇院は755年の設置で、前年に聖武上皇、光明皇太后はじめ400余人に鑑真らが登壇受戒させた仮設の戒壇を常設化したもの。観世音寺、下野薬師寺とともに「天下之三戒壇」とよばれる。 855年(斉衡2)大仏の頭部がおち、つづいて917年(延喜17)僧坊、講堂、934年(承平4)には西塔、回廊を焼失。大部分は再建されたが、1180年(治承4)平重衡(しげひら)に焼き討ちされてほぼ全伽藍を焼失した。俊乗房重源が後白河上皇、源頼朝の後援をうけて再建をはたしている。運営は、周防(すおう)国を造営料国に指定して財源を確保、また東大寺も10カ国に30の荘園をもっていた。 再建後もたびたび災害にあい、1567年(永禄10)には三好三人衆と松永久秀の戦いにまきこまれ、大仏殿も炎上した。しかし荘園制が崩壊し経済的にくるしくなっており、江戸時代にも3710石余の寺領しかあたえられず、復興作業ははかどらなかった。そこで竜松院公慶は、徳川綱吉とその生母、桂昌院に資金援助を依頼。1709年(宝永6)現存する大仏殿・中門・回廊などを復興させた。1868年(明治元)の神仏分離令によって寺院への国家給付がなくなると、寺は困窮し、東南院文書・尊勝院聖語蔵などを皇室に献納したり、境内の一部を売却して経営を維持した。その後も観光事業と多角経営につとめ、現在にいたる。1980年(昭和55)には3年をかけた昭和の大修理がおわり、法要がいとなまれた。
東大寺の境内は、大仏殿を中心に、南大門、鐘楼、法華(ほっけ)堂、開山堂、二月堂、転害(てがい)門、勧進所(勧学院)、戒壇院などがたちならぶ。これらの建築は、創建当初のもの、復興時の鎌倉時代のもの、江戸時代以降のものなどにわかれ、また、そのほとんどが貴重な文化財をもっている。 法華堂は、奈良時代、746年(天平18)ごろに不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)を本尊としてたてられた。毎年旧暦3月に法華会(え)がおこなわれることから三月堂の別称がある。本堂と礼堂で一棟をなすが、礼堂は鎌倉時代の建築である。本堂の内陣にある不空羂索観音は、脱活乾漆(だっかつかんしつ)造で、三目八臂(はっぴ)の姿であらわされ、頭部には珠玉でかざられた銀製透彫の金具による宝冠がのせられている。現在、その脇侍として日光・月光菩薩(ぼさつ)像がおかれている。ほかにも本尊を中心として、梵天、帝釈天、四天王像など天平時代の乾漆像がならび、本尊の背面厨子(ずし)内には、天平時代の塑造(そぞう)である執金剛神像(秘仏)が北面してたつ。 南大門は、1199年(正治元)、重源や宋人の陳和卿(ちんなけい)らの手によってつくられた。平安時代以来の和様建築とはまったくことなった「天竺様(てんじくよう)」または「大仏様」とよばれる建築様式がみられる。これは中国南宋、福建省近辺の建築様式の影響といわれている。南大門の阿形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)の2体の金剛力士像は、「東大寺別当次第」によれば、1203年(建仁3年)10月3日に開眼されたとある。近年の解体修理によって吽形から発見された納入経に、大仏師として定覚と湛慶、阿形の金剛杵(こんごうしょ)からは、大仏師として法眼運慶、安阿弥陀仏(快慶)の銘が発見された。 金堂である大仏殿は、2度の兵火にあい、現在の建物は1709年(宝永6)に再建されたものである。木造建築としては世界最大の規模で、今も豪壮雄大な景観に天平の面影をとどめている。大仏殿前庭には、創建当初の金銅八角灯籠がたつ。 東大寺には、ほかにも天平時代の転害門や正倉院、鎌倉時代の開山堂、鐘楼、室町時代の大湯屋、江戸時代の再建ではあるが、お水取りで有名な二月堂などがある。 彫刻では、ほかに天平時代の戒壇院の塑像四天王像、平安時代初期の開山堂の良弁(ろうべん)僧正座像があり、鎌倉時代においては、俊乗堂の重源座像や快慶作の阿弥陀(あみだ)如来立像のほか、東大寺八幡宮の快慶作、僧形(そうぎょう)八幡神座像など、慶派の制作による仏像がいくつかみられる。 書蹟では、天平期の西大門勅額・二月堂焼経、絵画では、平安後期の華厳五十五所絵巻(善財童子絵巻)、倶舎曼荼羅(くしゃまんだら)、鎌倉時代の四聖御影などがある。工芸では、大仏創建以来の八角灯籠や天平勝宝四年作の巨大な梵鐘がある。書蹟文書には日本高僧伝文抄や膨大な東大寺文書などがあり、歴史研究の貴重な史料である。
東大寺の行事の中でも、二月堂のお水取り(修二会:しゅにえ)はもっとも有名である。現在では3月1日から14日間の行法がおこなわれるが、12日夜に籠松明(→ 松明)をふりまわす「お松明」と、同日の深夜に閼伽井(あかい:若狭井)から閼伽水をくむ「御水取」には多くの参詣(さんけい)客があつまる。なお、御水取の語は、修二会の総称としてももちいられる。 そのほかに、正月7日の修正会(しゅしょうえ)、7月28日の解除会(げじょえ)なども東大寺の代表的な行事である。
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